ブラジル秦野会の大矢進貞(おおや・ゆきさだ)さん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2023年9月号
ブラジルに移住する前に神奈川県立秦野(はだの)高等職業訓練所で研修した経験を持つ大矢進貞さん(83歳)。同制度は1962年、海外工業移住科が同訓練所に設置され、80年までの18年間に「秦野生(はだのせい)」と呼ばれる卒業生ら約300人がブラジルへ渡ってきたという。
大矢さんは父親が旧満州鉄道で働いていたため、北朝鮮の国境に接する安東(あんとん)市(現・中国遼寧省丹東(たんとん)市)で生誕。幼少時代は同市を流れる鴨緑江で泳いだり、橋のたもとで遊んだ記憶がある。
第2次世界大戦終戦後の1947年10月に家族で日本に引き上げた大矢さんは、父親の親戚がいた新潟県柏崎市に住むことに。当時7歳で本来なら小学校2年生になるところだが、満州から引き揚げてきたことで小学校1年生に編入されたという。
その後、神奈川県横須賀市に「引き揚げ者寮」があったことから、11歳の時に家族で転住。父親は同地で米軍関係の仕事に就き、大矢さんは中学・高校を横須賀で過ごした。その間、中学時代には水泳で県内3位に入賞し、高校も水泳の名門校に進学する予定だった。
しかし、16歳の時に中学校時代の先輩が入社していた三菱電機大船製作所に養成工として受験したところ、合格。1年間、神戸で研修を行うことになった。研修を終えて横須賀に戻った大矢さんは、地元の夜間高校に通いながら、大船製作所で働いたが、養成工出身の先輩たちの姿を見て、出世が難しいと判断。横浜の職業訓練所で機械設計の技術を身に付けたりして、「どうしようか」と思い悩んでいた。そうした時、中学校時代の同期生から秦野高等職業訓練所を経てブラジルに行くとの話を聞きつけ、自身も試験を受けて合格することができた。
訓練所では、ポルトガル語の勉強をはじめ、旋盤などの実地研修も行われ、63年10月から半年間、秦野で過ごした。
当時、大矢さんは現在の夫人である紀子(のりこ)さん(81歳、神奈川県平塚市出身)と付き合っていたが、当初は紀子さんから「私はブラジルには行きませんから」と反対されていたという。しかし、ブラジルで夫婦生活の基盤を作ってから呼び寄せるという条件で、渡伯直前に紀子さんと結婚式を挙げることができた。64年6月、24歳の時に「秦野生4期生」として7人の同期生とともに、とりあえず単身で海を渡ることになった。
ブラジルでの受け入れ先は、サンパウロ市アリカンドゥーバ通りにあった池森鉄工所。30人ほどの従業員に交じって電子機器部品の製造を行った。その間、翌65年5月に紀子夫人を呼び寄せたが、経済的に生活は厳しかった。そのため、日系の職業斡旋所で紹介を受け、自動車会社フォードのイピランガ工場で金型設計工として転職。給料は池森鉄工所時代の3倍となった。71年には同業他社のフォルクス・ワーゲン社に移籍。その間、「ブラジル秦野会」の会長やブラジル神奈川県人会長なども歴任し、仕事の合間に野球を行うなど人的交流も盛んになった。
87年から1年間、中堅工業技術移住者再研修制度により群馬県太田市で研修を受け、帰伯後はフォルクス・ワーゲン社を退社して、日本人が経営する空調設備部品製作所で工場長として就任した。しかし、当時のコーロル大統領政権のハイパーインフレによる経済不況で同社は閉鎖。そうしたところ、日ポ両語ができることを買われて、日本の出稼ぎ斡旋業者の東京支社代表として呼ばれ、53歳の時に単身日本に赴任した。東京をはじめ、広島、名古屋などでの派遣業を経て、2003年には10年間の日本生活に終止符を打った。
ブラジルに戻ってからは、日伯移住者協会やブラジル日本会議の事務局などを任され、その間、趣味の野球も楽しんできた。7年ほど前からは学生時代からやっていたマージャンを熟年クラブ連合会などで教えており、充実した生活を送っている。
「ブラジルに来て、良かったことも悪かったこともあったが、出稼ぎ(斡旋業)で日本に行った時に日本人とブラジル人の違いをさらに感じた。これまで家族には何かと迷惑をかけてきたが、今が一番、幸せかもしれない」と大矢さんは実感している。
(2023年6月取材)
月刊ピンドラーマ2023年9月号表紙
#写真 #海外 #海外旅行 #海外移住 #ブラジル
#移民 #サンパウロ #月刊ピンドラーマ
#海外移民 #日系移民 #ピンドラーマ
#日本人移民 #松本浩治
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?