ペレイラ・バレットに住み続けた馬生巌(ばしょう・いわお)さん 移民の肖像 松本浩治 2022年6月号
#移民の肖像
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#松本浩治 (まつもとこうじ) 写真・文
かつて「チエテ移住地」と称された現在のサンパウロ州ペレイラ・バレット市には、ブラジル拓殖組合(ブラ拓)により1928年から日本移民の入植が開始された。同地には今も約400家族の日系人が在住しているというが、コーヒーや綿栽培で栄えたころの面影はない。加えて、イーリャ・ソルテイラ、トレス・イルモンスなどの水力発電所ダム建設により、水没したノーボ・オリエンテ橋やイタプーラの滝に昔の思いを寄せる人も少なくない。
一方、入植祭の皮切り行事として毎年7月下旬に実施されている盆踊り大会は有名だ。「ブラジルで唯一」と称される円形の常設盆踊り会場は約3アルケール(約7.2ヘクタール)の面積を誇り、場内には野球場、陸上競技場やゲートボール場も完備されている。
1934年、8歳で家族とともにブラジルに渡ってきた馬生巌さん(72、岡山県出身)は、入植以来ずっとこの地を見続けてきた。乳牛を飼っているためか、顔は日に焼けて黒く、深い皺が年輪のように顔に刻まれている。
ブラ拓のコーヒー担当者としてチエテ移住地に入った馬生さんの父親は翌35年、価格が伸び悩んでいたコーヒーに見切りをつけ、綿栽培への転換を支配人に陳情。同移住地での綿作りのきっかけになるとともに、ブラ拓が立ち直る要因にもなったという。移住地で生産された綿は、サンパウロ州アンドラジーナ、ミランドポリス、バル・パライゾなどの工場で原綿にされ、海外へと輸出。「金のなる木」としてもてはやされた。
第2次世界大戦後、景気が落ち始めてから70年代初期まで綿栽培を続けた馬生さんだが、害虫の消毒剤の研究に励んだこともあって、「綿作りには楽しみがありましたよ」と当時を振り返る。
ブラジルの有識関係者と面識があったことに加えて、ダム建設に伴う掘り割り工事のためCESP(サンパウロ州電力公社)が馬生さんの土地の一部を買い上げたことが移住地に残る大きな原因となったそうだ。金融機関からの融資も労せず受けることができた馬生さんはその後、連作が利かない綿栽培から牧畜に変更。残った34アルケール(約82ヘクタール)の土地に乳牛や豚を飼うとともに、トウモロコシ栽培などの雑作を行ってきた。
現在も牧畜に携わる馬生さんは乳牛の品種改良などにより、生産の効率化も行っているが、「今後、牧畜だけに頼るのも難しくなってきた」と時代の流れを実感しているようだ。
1972年にブラジルに帰化した馬生さんは自らの経験から、ブラジル社会との接触が大切だと強調する。
「ペレイラ・バレットからもようやく日系の市長が出るようになった。日本人1世が少なくなる中で、これから次世代が伸びていくには、ブラジルの政治に携わっていかないと希望は薄い。私たちが日本から来てブラジルにお世話になったように、今度はブラジルにお返しをする必要がある」
ダムの完成により、ノーボ・オリエンテの橋が沈んだ現在、4キロにおよぶ新大橋ができたことによって交通の便は良くなった。「生活は今の方が少し楽になった」と笑う馬生さんだが、子供には一切、お金を残さないと語る。
「財産は自分で作るもの」—。馬生さんは、自分の人生哲学を貫き通してきた。
(1998年7月取材、年齢は当時のもの)
月刊ピンドラーマ2022年6月号
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