イエメン共和国編 ~せきらら☆難民レポート 第18回~
#せきらら☆難民レポート
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#ピンドラーマ編集部 企画
#おおうらともこ 文と写真
◆イエメン美女の逃避行
「いくつものフェンスを乗り越え、叫びながら過ごす夜もありました」
全身を茶系の長袖服とヒョウ柄のスカートで覆っていても、ヒジャブを取れば間違いなくおしゃれな美女であることを確信できるイエメン人女性ラネーンさん(30歳)。その足には、南米各国の移動の途中で負傷した大小の傷跡が残り、明らかに疲労を感じさせるむくみが見られた(宗教上の理由からラネーンさんの写真は掲載できません)。ラネーンさんは続けた。
「闇夜にどこを歩くべきか、何に遭遇するかわからないような農場や木々の合間を通り抜けてきました」
ラネーンさんは婚約者アブドゥルさん(28)と弟ナセルさん(22)の3人で、2020年3月9日にそれまで暮らしていたイエメンのアデンを飛び立った。2015年から続く内戦により、ライフラインは機能しておらず、電気もなく、安全な飲み水もなく、命の安全が保障されなくなったイエメン。コロナ禍はそれに追い打ちをかけている。生き延びるために同国を一時的にでも離れたい人が大半だが、その移動費を確保できないのが一般庶民の現実である。
「人権が尊重され、真面目に働き、安心して子どもを産み育てられる未来をのぞめる場所に住むのが今の夢です」
ナセルさん
◆父の亡命先で誕生
ロシアの政治を学ぶ優秀な学生だった父親は、ある政党に反対姿勢を崩さず、やがて戦闘機パイロットとなり、その仲間とのパーティーに参加していた。それが当時のイエメン政府から目をつけられ、死刑の脅迫を受けるようになり、3年間家族でシリアのダマスカスに亡命した。ラネーンさんはその時期にダマスカスで生まれた。その後事態が改善しイエメンに無事戻り、スチュワーデス時代に父親と知り合って結婚した母親は家事に専念し、ラネーンさんを筆頭に1男5女に恵まれ、家族皆で穏やかな生活を送っていた。ラネーンさんは学校で建築学を修めた後、アデン国際空港に務め、婚約者との結婚も控えていた。その矢先の内戦勃発だった。
安住の地を求めて2020年3月にイエメンを出国してから、空路エジプト、トルコ、コロンビア、パナマを経由して、6日後に一旦ビザの不要なエクアドルに入国。首都キトで約8か月を過ごした。
「キトは自分の故郷のように感じられる好きな町でした。しかし、生活費が底をつき始め、エクアドル政府もイエメン人を好ましいとは思っていなかったため、新たに安住の地を求めて旅立つことになりました」
イエメン人が入国するにはビザが必要な国が多く、南米での命がけの旅行が始まった。キトからタクシーと徒歩でリマ、クスコを経由して、ブラジルの国境を越えてリオ・ブランコに到着。そこから飛行機で11月9日にサンパウロに到着した。サンパウロではナセルさんの友人であるイエメン人ヤセル・スライマンさん(37歳、イッブ生まれ)の自宅に約一週間身を寄せることになった。婚約者は途中で別ルートをたどり、ゴイアニアに滞在していた。
「婚約者はブラジルに長く留まることは考えませんでした。家もなく、仕事もなく、生活を始める見通しが持てなかったからです」
ラネーンさんとナセルさんは11月16日にサンパウロを発ち、婚約者とゴイアニアで合流し、そこから飛行機でアマパ州に移り、ブラジルとフランス領ギアナの国境を流れるオヤポク川を渡った。ブラジルからフランス領ギアナへの国境越えはボートで10分。その後、イエメンに戻るか他国に渡るか考え直すとのことだった。
◆ブラジル人ムスリマとの結婚で定住へ
ラネーンさんとナセルさんがサンパウロで世話になったヤセルさんは、2018年7月にブラジルに到着した。内戦による生活状況の悪化を逃れて、イエメンから対岸のジブチを経てエチオピアに渡り、空路ボリビアへ。そこからブラジルに入国し、バスでサンパウロに到着した。すぐに難民申請を行い、半年後には認定された。
ヤセルさん
イエメンではサウジアラビアとの間を往復し、様々な商売を行っていた。妻と5人の子供は今もイエメンに残り、時機を見てサンパウロに呼び寄せたいと考えている。
そんなヤセルさんは昨年、ブラジル人女性のムスリマであるハディージャさんと結婚し、10月には息子も誕生した。
「一人暮らしは耐えられません。イスラム教では4人の妻と結婚できます。ブラジルも妻も愛しているし、息子も生まれたし、将来はイエメンとブラジルを往復する生活を送ります」
と話すヤセルさん。現在は個人で運転手の仕事をしている。
「ブラジルは人が温かいということを聞いて避難先に選びました。確かに人は親切ですが、強盗や泥棒が多いです。去年、ウーバーの運転手をしていた時にはピストルを突き付けられて車を盗まれました」
ヤセルさんは一日の気温差が大きいことや夕立が激しいことも慣れないといい、公立病院の質が良くないのもサンパウロで問題に感じている。
イエメン人の難民や移民はブラジルには多くないが、モスクなどを通じて知り合ったアラブ人同士のネットワークに助けられている。ラネーンさんとナセルさんが滞在中も、シリア人とサウジアラビア人の友人が集まって、ラネーンさんとハディージャさんがイエメンの羊料理ゾルビアンでもてなし、アラビア語会話でほっと一息つくひと時を過ごした。
「イエメンはアラブ人のルーツの土地です。旧約聖書に登場するアラブ人の祖であるアブラハムの息子イスマエルが誕生しました」
と、現在の出身国は違っても同じように戦争を逃れてきた友人を兄弟と呼び合い、和気あいあいとした雰囲気が漂う。
イエメンやアラブ文化に誇りを持つヤセルさんたち。皆ポルトガル語やブラジル生活に慣れるのは日本人と比べて明らかに早く、英語も知っているが、英語は植民地建設者の言葉とドライに割り切っている。
「一番の願いはアラブ世界の戦争がなくなり、平和になること。そして家族が皆で一緒に暮らせることです」
とヤセルさんは穏やかに語る。
左からイエメン人のナセルさん、ヤセルさん、シリア人のアブドゥルバセットさん、サウジアラビア人のアフマドさん
おおうらともこ
1979年兵庫県生まれ。
2001年よりサンパウロ在住。
ブラジル民族文化研究センターに所属。
子どもの発達に時々悩み、励まされる生活を送る。
月刊ピンドラーマ2021年1月号
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