追悼!セルジオ・メンデス~グローバル化と伝統の間で揺れ動く音楽人生~ ブラジル文化研究室 島田愛加 月刊ピンドラーマ2024年11月号
2012年5月、ビルボード東京でセルジオ・メンデスのショーを観た。エンターテインメント性が高く、最後は観客総立ちで「オバー!オバー!オバー!」と彼の最大のヒットソング「マシュ・ケ・ナダ」を熱唱。その様子を4階席から観ていた私は「日本人は恥ずかしがり屋」というのは偏見だと感じた。
そんな巨匠セルジオ・メンデスが、9月5日に人生の半分以上を過ごした米国で息を引き取った。訃報は世界中で報じられ、もちろん彼の故郷ブラジルでも記事になった。だが国内大手新聞社が「ボサノヴァを世界に広めたセルジオ・メンデス!」と書いていることには違和感を覚えた。確かに、セルジオはボサノヴァの楽曲を世界に紹介したミュージシャンであることには間違いないが、彼自身ボサノヴァを演奏しているつもりは到底なかったからだ。前述の「マシュ・ケ・ナダ」もボサノヴァではない。では、セルジオ・メンデスが作り上げたものとはいったい何なのか。
◎米国での成功
セルジオは1941年9月11日リオデジャネイロ州ニテロイに生まれた。クラシックピアノを習ったのちジャズに心酔し、60年代にはジャズやサンバジャズの名手が集まるベコ・ダス・ガハーファス(横丁)のセッションに顔を出し技術を磨いた。1962年、米国カーネギーホールで行われたボサノヴァのコンサートに参加するためアントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトらと共に渡米。自身のグループで出演し手ごたえを感じたセルジオは、ブラジルに戻りサンバジャズのアルバム(①)をリリース。米国のジャズピアニスト、ホレス・シルヴァーを愛聴していたセルジオのピアノはファンキーでエネルギッシュなプレイが印象的だった。
米国での大成功を夢見て再度渡米したセルジオだが、思い通りにはいかなかった。そんな時、トランペット奏者でA&Mレコードの創始者ハーブ・アルパートと出会う。ハーブは当時、メキシコの伝統音楽マリアッチをアメリカナイズして演奏するグループ “ティファナブラス”* を率いていた。彼はセルジオに「米国人女性歌手を起用し、ビートルズの曲をボサノヴァ風にアレンジすること」を提案、それに従いセルジオは大胆な方向転換を行った。リリースしたアルバム『セルジオ・メンデス&ブラジル'66』(②)は初のビルボードチャート入りを果たす。
◎ルーツからの乖離
セルジオの音楽は、ブラジル音楽にポップスの要素を強く取り入れることで世界中の聴衆にアピールすることに成功した。その一方で、ブラジル音楽のルーツから遠ざかってしまったこともあり、本国ブラジルではあまり受け入れられなかった。ブラジル音楽の多くが2拍子であるのに対し、セルジオのグループが演奏する音楽は例えブラジルの曲でも4拍子に聞こえ、異なる調子を生み出した。その理由として、①サウンドの多様化によってサンバやボサノヴァの核となるスルド(大太鼓)が弱まったこと、②米国では既にジャズの一種として「ブルー・ボッサ」のような米国スタイルの4拍子ボサノヴァが成り立っていたことが挙げられる。
それを象徴する決定的な出来事がある。セルジオのグループが「マシュ・ケ・ナダ」の生みの親ジョルジ・ベンと共演しこの曲を演奏した際、冒頭の部分からジョルジとセルジオ側の女性コーラスに大きなズレが生じたのだ。サンバを軸にして書かれたこの曲はスルドの上にスイングする複雑なシンコペーション(強い拍からメロディをずらす)から成り立っており、米国の歌謡曲とは大きく異なる。余談だが、ジョルジ・ベンも「マシュ・ケ・ナダ」をボサノヴァだと思っていない。歌詞には「サンバ」と出てくるが、伝統的なサンバとも異なる。強いて言えば「サンバホッキ」(サンバとロックの融合)と言えるだろう。
◎ブラジル音楽への回帰
いつの間にかハーブ・アルパートより稼ぐようになったセルジオだが、ブラジル人であるアイデンティティとの間で葛藤を抱えていたのだろう。ブラジル音楽への回帰を試み、少しずつブラジル色が強い作品を創り出した。1992年にはバイーア出身のカルリーニョス・ブラウンらを起用したアルバム『ブラジレイロ』(③)でグラミー賞の最優秀ワールド・ミュージック・アルバム賞を受賞した。
2006年には世界中の若者から支持を得ていたラッパーのウィル・アイ・アムがセルジオのファンという縁で「マシュ・ケ・ナダ」にラップを入れた新しい試みが話題になりリバイバルヒット。こうしてセルジオの名前は若い世代にも広まり、ウィルが所属するブラック・アイド・ピースがコパカバーナビーチの年越カウントダウンライブに出演した際、セルジオもゲスト出演するなどブラジルに凱旋し再評価されたのであった。
セルジオ・メンデスはグローバル化とともに新たなブラジル音楽の可能性を作り上げた。彼ほど米国でレコードを売ったブラジル人はいない。日本での人気も高く、何度も来日公演を行った。世界中のリスナーを獲得するには、こだわりを捨てて柔軟になることも必要なのだ。例えば、英語で歌うことは不可欠である。近年では世界進出に力を入れたアニッタも英語で歌っている。しかし故郷の音楽を背負うのであれば、そこに文化や歴史を上手く反映させることも重要となってくる。セルジオは自らのアイデンティティを保ちながら、世界の人々が共鳴するブラジル音楽を作り出す挑戦を受けて立ったのかもしれない。天国ではどんな音楽を奏でているのだろう。
<本文中に登場したアルバム紹介>
①Você Ainda Não Ouviu Nada!(1964)
全曲インストゥルメンタル作品。セルジオが熱い即興をこなすピアニストだった記録になるアルバムとなった。メンバーはハウル・ジ・ソウザなど、その後ブラジルを代表することになる器楽奏者ばかり!
②Herb Alpert Presents Sergio Mendes & Brasil '66(1966)
セルジオの運命を変えた1枚。ハーブ・アルパートの提案通り、米国人歌手を起用。「マシュ・ケ・ナダ」から始まり、ビートルズの「デイ・トリッパー」も収録。グループはメンバーチェンジをしながら活動した。
③Brasileiro(1992)
カルリーニョス・ブラウン率いる打楽器隊から始まる豪華な幕開けの後はイヴァン・リンス、ジョアン・ボスコ、エルメート・パスコアル、ギンガ、アルジール・ブランキらの作品を収録。一貫性はないがブラジル音楽の豊かさを感じられる。
③Timeless(2006)
96年のアルバム発表から10年が経過。ブラジル回帰作品を除けばイージーリスニング的なイメージがあったセルジオの音楽にラップが入ってリバイバルヒット。実はこのジャケット、自身の1965年のアルバムと同じ写真を使っている。
月刊ピンドラーマ2024年11月号表紙
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