辻移民の西尾八州子(にしお・やすこ)さん 移民の肖像 松本浩治 月刊ピンドラーマ2021年4月号
#移民の肖像
#月刊ピンドラーマ 2021年4月号 ホームページはこちら
#松本浩治 (まつもとこうじ) 写真・文
戦後の「辻小太郎(つじ・こたろう)移民」として、アマゾナス州マナカプルー(Manacapuru)のベラ・ビスタ(Bela Vista)植民地に入植した西尾八州子さん(65、北海道出身)。1954年7月31日に「ぶらじる丸」で神戸港を出発し、同8月27日にベレンに着いたという。父・正雄(まさお)さんは鳥取県出身で、富山県出身のかほるさんと結婚後、北海道開拓団の一員として極寒の地に渡っていた。しかし、「土地が狭いことから、分家させられない」状況の中、道庁から南米への移住の話を聞いた叔父の兄弟がブラジル行きに大きな夢を抱いたという。
叔父たちのブラジルへの思いが日増しに高まる中、15歳以上の労働力が3人以上いないと構成家族ができないため、当時18歳だった八州子さんに白羽の矢が向けられた。その頃、帯広市内に住んでいた八州子さんは父を早くに亡くしたこともあり、母と姉との3人暮らしの生活が長く、事あるごとに叔父たちの世話になっていたという。
「日頃の恩返しができるものならという気持ちもありましたが、まさか本当にブラジルに行くとは思ってもいませんでした」
叔父兄弟の2家族と一緒に神戸まで行った八州子さんは、渡伯直前の収容所での2週間の生活を過ごすにつれ、初めて「大変なことになってしまった」と後悔。夜になると収容所の前の夜汽車を眺めては、「あの汽車に乗って北海道に帰りたい」と思い続けたという。ブラジルに行く船の中でも船酔いがひどく、約1か月間の食事は粥と梅干だけで、ほとんど寝てるだけの生活だった。
八州子さんたちが行くことになったマナカプルーは当時、ベラ・ビスタ植民地とアグア・フリア植民地(Água Fria)の2つに分かれていた。ベレン到着後も上陸することなく、マナウス行きの船に乗り換え、マナウスから舟でさらに4時間かかるという同地にようやく到着。しかし、同地は小石が多い土地で、「こんなところで何ができるか」と叔父たちも呆然となった。
第3回目の入植となった八州子さんたちが着いた時は、椰子の葉で囲った隙間だらけの家が2軒あるだけで、それでもないよりは格段にマシだった。食べていくためには作物を植えなければならず、米、マンジョカ芋、グァラナ等を植えた。しかし、恐ろしいのは畑仕事を終え、夕方になる頃。毎日、蚊の大群に悩まされ、「身体中、隙間もないほどにかまれ、特に、夜にトイレに行くのは死に物狂いでした」と八州子さんは当時の生活を振り返る。
植民地は結局、第4回目の入植が最後となり、その頃になると準備する家すらも建っていない状況だったそうだ。原始林を伐採し、州から配給されたグァラナの木に毎日水をかける生活が続いた。将来性もなく、このまま居残っても仕方がないと、ベラ・ビスタの4家族とアグア・フリアの1家族の計5家族が一緒になり、55年11月パラー州トメアスー(Tomeaçu)に転住。ほとんど夜逃げの状態だったという。
当時、トメアスーはピメンタ(コショウ)景気で賑わい、木村総一郎(そういちろう)というトメアスー農協の組合長が経営する農場で八州子さん家族は働いた。2年後、八州子さんは組合で働く西尾氏の長男だった一夫(かずお)さんと結婚したが、1年後には体重が10キロも減っていた。
結婚して数年は景気も良く、労働者も使用するなどしていたが、60年代後半にピメンタに病気が入り、八州子さんのところも全滅。その後、すぐに金銭につながる養鶏やマラクジャを栽培したりしたが、労働者を雇う余裕もなく、除草、伐採、施肥など自分たちでやるしかなかった。2人の息子をもうけていた八州子さんだが、64年に5歳だった長男が白血病で死亡。次男のジョージさん(38)は1歳だったが、「もし次男がいなければ、日本に帰るところでした」と八州子さんは当時の思いを吐露する。
後に八州子さんの母の妹がブラジルに移住し、ベレンに住んでいたこともあり、11歳になっていた次男をその叔母に預けた。その後、91年に八州子さんもベレンに出て、すでに成人となっていたジョージさんが経営する美容院の助手として働いた経験もある。
八州子さんはこれまで何度か日本に一時帰国しているが、今でも日本に帰って暮らしたいという望郷の念は強い。「フィルムみたいに巻き戻せるなら、ブラジルに行く前の時代に戻りたい」—。八州子さんは家族のことを思いながらも、どうしようもない現状を思いつめながら涙を拭った。
(故人、2001年6月取材、年齢は当時のもの)
月刊ピンドラーマ2021年4月号
(写真をクリック)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?