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元日本語ラジオ放送局アナウンサーの石崎矩之(いしざき・のりゆき)さん 移民の肖像 松本浩治 2021年8月号

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#移民の肖像
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#松本浩治 (まつもとこうじ) 写真・文

石崎矩之さん[1]

 第2次世界大戦後の第2回計画移民でアマゾナス州マナカプルー(Manacapuru)に入植し、その後にサンパウロ市の日本語ラジオ放送局アナウンサーとして活動した経験を持っていた石崎矩之さん(74、熊本県出身)。父親が元軍人で、戦後に公職追放処分を受けたことからアマゾン移民に応募し、石崎さんは1954年に父母、弟妹の5人家族でブラジルに渡って来た。

 マナカプルーで1年5か月を過ごしたが、「とても生活できる場所ではない。このままでは、のたれ死ぬ」と思っていた矢先、当時、日本から来伯していた評論家・大宅(おおや)壮一氏の案内役をつとめることに。サンパウロからアマゾンに来ていた日本人のつてを頼り、サンパウロ市に出ることになった。

 赤間(あかま)学園を通じて「ラジオ・クルトゥーラ(Rádio Cultura)」日本語放送局を紹介され、サン・ジョアン通り(Av. São João)にあったスタジオで勤務。55年11月から57年9月までの約2年間、同局で日本語アナウンサーとして働いた。

 当時の番組には、ニュースをはじめコマーシャルなどもあったが、一番人気があったのがレコード曲の紹介だった。放送局には10数枚と少ないレコードしかなく、働く人数も少ない環境の中で石崎氏は苦労しながら番組作りを行なってきた。

 スタジオでの放送以外に、「野球のヤの字も知らないのに」(石崎氏)サンパウロ州マリリアなど地方での野球中継を行なったり、コンゴニアス空港(Aeropoto de Congonhas)に日本から記念の飛行機が到着した際には、「重たくて苦労の種だった」携帯録音機を担いで取材に行くなど、多忙な日々を送った。

 石崎氏がアナウンサー当時に所有していた過去の写真の中には、半世紀以上も前の「第2回コロニア芸能祭」や「近郊団体対抗歌合戦」などもあった。同氏によると、当時のコロニア芸能祭は、まだ現在の文協(ブラジル日本文化福祉協会)大講堂ができておらず、サロンに特設舞台を急造して実施していたという。また、スポンサーの一つがサンパウロ市ジャバクアラ区にあった有名料亭の「青柳(あおやぎ)」で、当時のブラジル日系社会の状況を物語っていたそうだ。

 その後、57年10月に石崎氏は、リベルダーデ広場(Praça da Liberdade)に事務所があった「ラジオ・サンタマーロ」に移籍。日系社会でも有名な放送局となり、プロレスラー「力道山」の来伯試合の中継やレコードの新曲紹介などで人気を得た。

 特にレコードは、石崎氏たちラジオ関係者にとって「これ以上の貴重品はない」もので、新しいレコードを日本から持って来る日本人がいるとの情報を聞きつけてはサントス港まで出迎え、それらの人々からレコードを録音させてもらっていた時代だった。

 ブラジル日系社会のラジオ全盛時代は、54年から61年頃までだったそうだが、石崎氏は「知らないうちに、そういう世界に飛び込んでいた」と当時を振り返る。

 その後、テレビの発達とともにラジオは衰退していったが、全盛当時は地方から出てきて洗濯業につく日本人や近郊農業者が、仕事をしながらラジオ放送を聴くことができるとして、持てはやされた。

 その頃、ラジオ放送局では人手の足りない中、「ラジオ小説」なども自ら作り、解説からセリフまで1人で何役もこなしていたという石崎氏。聴者からのファンレターも数多く、返信の手紙には自身のブロマイド写真を添えて送ってこともあったそうだ。、大手スポンサーの中には、当時まだピニェイロス区にあった「カーザ・水本」の水本毅(みずもと・つよし)氏など親分肌の人物が付いてくれ、小遣いをくれたり可愛がってもらったという経験もあり、世知辛い現在よりも、良き時代だったことを懐かしんでいた。

(故人、2009年7月取材、年齢は当時のもの)


松本浩治(まつもとこうじ)
在伯25年。
HP「マツモトコージ写真館」
http://www.100nen.com.br/ja/matsumoto/


月刊ピンドラーマ2021年8月号
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