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ホセ・ポイ(アルゼンチン) クラッキ列伝 第180回 下薗昌記 月刊ピンドラーマ2024年11月号

サンパウロFCでクラブ世界一のタイトルに貢献したGKはゼッチとロジェーリオ・セニの二人のみ。いずれもクラブの英雄として知られる守護神だが、長いサンパウロFCの歴史において、最初に英雄となったGKはアルゼンチン生まれの名手だった

男の名前はホセ・ポイ。メッシの生まれ故郷としても知られるロサリオ市で生を受けたポイは1926年、イタリア系の父とスペイン系の母を持つ家庭で育った。

1940年代に入ると、地元の名門、ロサリオ・セントラルの下部組織でプレーし、当時はFWとしてもピッチに立ったというポイだが、軍用兵器工場の作業場で働きながら、電気技師としての技術も身につけたという。

手先の器用な少年はやがて、まだGKグローブなどもなく、素手でシュートを止めるポジションだったGKを本職にし始め、1945年にロサリオ・セントラルでプロデビューを飾るのだ。

一時は、母国の中堅クラブ、バンフィエルドでもプレーしたポイではあるが、人生が大きく変わったきっかけはロサリオ・セントラルの一員として帯同したブラジル遠征の試合がきっかけだ。1946年、パカエンブースタジアムでサンパウロFCと対戦し2対2のドローに終わっているが、当時19歳だったポイの際立ったプレーはサンパウロFCの幹部からの注目を集めるに十分だった。

1949年、サンパウロFCに加入すると一年目にはサンパウロ州選手権でも優勝。その栄光のキャリアが始まっていく。

そのパフォーマンスの凄さを物語るエピソードがある。1954年のワールドカップスイス大会に向けて、当時の正GKだったフルミネンセのカスチーリョを不安視したブラジルメディアからはポイの帰化によるブラジル代表入りが待望されたのだ。

不倶戴天のライバルであるアルゼンチン人にゴールマウスを守らせても良い、と思わせたのはもはや伝説と言えるだろう。もっとも、ポイはブラジル代表でのプレーを望まなかったのだが。

ポイはサンパウロFCを率いた世界的名将のハンガリー人、ベーラ・グットマンの下でもプレーしているが、戦術家として知られたグットマンから学んだ経験は、やがてポイを名監督にも押し上げることになる。

1960年に柿落としされたモルンビースタジアムの建設資金の確保に向けてもクラブの広告塔として大きな貢献を果たしたポイは1962年に現役を引退。525試合出場の記録を残しているが、クラブに在籍した外国籍選手としては最多の偉大な数字を残している。

サンパウロFCとの幸せな婚姻関係は現役を退いた後も変わらなかった。
1964年からサンパウロFCを何度か率いて1975年にはサンパウロ州選手権で優勝。1982年と1994年にプラカール誌がサンパウロFCの「夢のチーム」として11人を選出した際、いずれもポイは名を連ねていた。

指揮官としては1974年のコパ・リベルタドーレスで母国のインデペンディエンテに敗れ、南米王者を逃しているポイではあるが、1993年の決勝でサンパウロFCがニューウェルス・オールドボーイズと対戦した際には、ニューウェルス・オールドボーイズと最もライバル関係が強かったロサリオ・セントラル育ちの血が騒ぐ。ニューウェルス・オールドボーイズのチーム情報を収集し、サンパウロFCの初の南米制覇を陰から支えていたという。

1996年2月8日、69歳で天に召されたポイではあるが選手として525試合、監督として422試合を率いた実績は永遠に語り継がれていく。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。

月刊ピンドラーマ2024年11月号表紙

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