見出し画像

エニオ・シルヴェイラ(出版社代表、編集主幹、1925~1996)

#ブラジル版百人一語
#月刊ピンドラーマ  2020年12月号
#岸和田仁 (きしわだひとし) 文

画像2

12月14日、13:30 昼食、黒フェイジョン(インゲン豆)、ライス、ミラノ風ビーフ、茹でジャガイモ、と、まさに肉体労働者のメシだ。食器は皿とスプーンだけ。ナイフとフォークは危険物だからと、禁じられている。食事そのものはさほどひどくはないのだが、拘置部屋があまりにも薄汚いし臭いので、食べる気力すら喪失してしまった。デザートは、缶詰のシロップ漬け桃。

15:00 夏日で猛烈な暑さ。シャワーを浴びたが、冷水でなく温水シャワーになったのは、貯水タンクが強烈な直射日光で“追い炊き”されたから。タオルなどなく、部屋の相棒が貸してくれた、小さな布ナプキンで身体を拭いた。(中略)

12月26日、06:00 いつもより眠れた。涼しい夜風があって蚊の襲来もなかったからだろう。起床してから、シャワーを浴び、ヒゲを剃る。ラジオで朝のニュースを聞く。アポロ8号は順調にいったようだが、ベトナムでは多くの死者と混乱が続いた。中東ではアラブとイスラエルの対立・紛争が激化しているが、ブラジル(のニュース)は、何もなし。何が起きているのだろうか。(中略)

12月31日、前日の日記に書き忘れたが、昨日、中庭で、髭も髪も伸び放題のジルベルト・ジルが日光浴をしているのを見た。それから後で知ったのだが、カエターノも一緒に軍警本部に拘置されたという。トロピカリアの二人が逮捕されてしまった!

 1968年12月13日、国家権力を掌握して4年目の軍事政権は、AI-5(軍政令第5号)を布告した。この軍政令によって、国会閉鎖権、人身保護令の停止権、地方自治体への執行官派遣権限といった強権を自由に乱用できるようになった軍当局は、即日、人権弾圧、言論弾圧に乗り出し、反政府派とみなされた政治家(元大統領、元州知事ほか)や言論関係者が200名以上も逮捕拘禁された。その中の一人が、大手出版社Civilização Brasileira(CB社)の代表・編集主幹エニオ・シルヴェイラであった。

 その30年後に刊行されたカエターノ・ヴェローゾの哲学的回想録“Verdade tropical”(今年9月翻訳刊行された『熱帯の真実』国安真奈訳)の19章「ナルシスの休暇」で、「軍服姿でない男が一人、中庭を歩いていた。(中略)彼の長身、のびのびとしてエレガントな動きと安定感は、なにか気品ある力でもって、制服の若い兵たちを威圧しているようだった。」
と記述されていたのがエニオである。

 サンパウロ生まれで、サンパウロ大学で社会学を専攻したパウリスターノがリオに移動して「ブラジル文明」出版社の編集&経営に関与し始めたのはエニオが27歳の時だ。彼はPCB(ソ連派共産党)の党員であり続けたが、出版内容に関しては、党の“公認左翼学者・作家”に偏重することは全くなく、文学では欧米文学からラテンアメリカ文学まで(具体的には、ニーチェ、ヘッセ、ジェイムス・ジョイス、DH・ロレンス、グレハム・グリーン、ヘミングウェイ、フォークナー、スタインベック、ノーマン・メイラー、コルタサル、カルピンティエル等々)、社会科学ではマルクス(『資本論』全巻ポ語完訳)、グラムシ、ガルブレイス、セルソ・フルタード、ドイッチャーまでカバーしている。出版関係者にはよく知られたエピソードであるが、ドイッチャーのトロツキー伝三部作(『武装せる予言者』『武力なき予言者』『追放された予言者』)を刊行した時、党中央から「ソビエトを裏切ったトロツキー関連本を出すことは認めぬ」と査問に近いチェックを受けたが、彼は「弊社は党の出版局ではない。出版に値すると自分が判断したら出版する」と断固はねつけたのであった。

  CB社が1960年代後半発行していた隔月刊総合文化誌では、毎号サルトルやグラムシ、フロム、マルクーゼらの論稿が掲載され、常連寄稿者としては、作家エイトール・コニー、劇作家ディアス・ゴメス、社会学者オクタビオ・イアンニ、批評家パウロ・フランシスといった面々が誌面を飾ったが、グラウベル・ホッシャが「シネマ・ノーヴォ宣言」を発表したのも同誌であった。

 彼の没後編集された追悼本(“Enio Silveira - Arquiteto de Liberdades” Bertrand Brasil 1998)は、1950年代から80年代にかけてブラジル出版界で起きたファクトを記録した史料的にも価値のある記事や証言が収録されているが、彼の獄中日記も抄録されている。冒頭に引用したのは、この日記の一部であるが、几帳面なエニオは毎日、起床から就寝まで1時間刻みで克明にメモしている。哲学者B・ラッセルの翻訳を進めつつ、特に食事については、三食すべて詳しく記録メモしており、当初は、「まあ食える」と評価していた“クサイめし”は炭水化物ばかりで、タンパク質欠如の“冷や飯”であると日記のあちこちで糾弾している。


月刊ピンドラーマ2020年12月号
(写真をクリック)

画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?