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ピエーレ クラッキ列伝 第152回 下薗昌記 2022年6月号

#クラッキ列伝
#月刊ピンドラーマ  2022年6月号 HPはこちら
#下薗昌記 (しもぞのまさき) 文

2021年のブラジル全国選手権で2度目の優勝を飾ったアトレチコ・ミネイロ。現行方式の大会が創設された記念すべき1971年の初代チャンピオンでもあるベロ・オリゾンテ市の雄は、パウメイラスやフラメンゴとともにブラジルサッカー界で隆盛を誇っている。

ブラジル全国選手権2部降格も経験。全国的な実績だけを考えれば、一時は「古豪」の呼び名が似合いつつあったアトレチコ・ミネイロがその存在感を取り戻したのが2013年のコパ・リベルタドーレス初制覇だった。

宿敵のクルゼイロが2度手にしている南米王者の肩書きを手にした2013年、チームの顔はロナウジーニョだったが、攻撃偏重のチームを陰で支えていたのが「アトレチコ・ミネイロのピットブル(闘犬)」の愛称で知られたピエーレである。

派手なテクニックを持つわけでも、ゴールを量産するわけでもないが、ピエーレはその献身的な姿勢でチームを支え、そしてサポーターの心を掴んできた。

頭角を現したのは2007年から2011年まで所属したパウメイラス時代だが、出場機会を失っていた彼をアトレチコ・ミネイロに招いたのは名将のクーカ。ピエーレはアトレチコ・ミネイロで復活を果たすのだ。

彼のサッカー人生も、波瀾万丈に満ちたものだった。1982年、バイア州のイトロローに生まれたピエーレだったが、20歳を目前にしていた彼は動物くじを売る店で、モトボーイとして生計を立てる若者だった。

同年代のサッカーエリートたちは既に高給を手にしていることも珍しくなかったが、ピエーレはようやく巡ってきた名門、ヴィトーリアの下部組織のテストを受けることを逡巡する。

「職を失いたくなかったんだ。でも店の主人が僕にテストを受けることを許してくれた」

ヴィトーリアの下部組織入りしたものの半年で追われることになったピエーレだったが、サンパウロ州の中堅クラブ、イトゥアーノから誘いを受け、プロの道を歩み始めた。

ヴィトーリアの下部組織時代にピエーレを知っていたフィジカルコーチがイトゥアーノで職を得ており、声をかけてくれたのだ。

その後、パルメイラスで頭角を表し、国内屈指の守備的ボランチとして知られたピエーレのスタイルは「ノミ」と呼ばれるほど相手のキーマンをねちっこい守備で封じ込めるもの。173センチと上背はないが、チームの黒子に徹し、泥臭く戦い続けてきた。

2011年、アトレチコ・ミネイロに移籍し、かつての輝きを取り戻したピエーレにとって、最高の瞬間はやはり2013年のコパ・リベルタドーレスの制覇である。

モトボーイから南米王者に上り詰めたピエーレは2015年4月にフルミネンセに移籍。アトレチコ・ミネイロでは公式戦170試合に出場したもののゴールはゼロ。しかし、アトレチコ・ミネイロのサポーターは「永遠のピットブル」と彼を称賛。2017年にフルミネンセの一員としてアトレチコ・ミネイロのホーム、インデペンデンシア競技場に戻ってきたある試合で、アトレチコ・ミネイロのサポーターはピエーレを温かく迎え入れたのだ。

「アトレチコ・ミネイロで得点が取れなかった分、その穴埋めは、数々のタイトルでしたよ」
と笑い飛ばすピエーレだが、クラブに初の南米王者の肩書きをもたらした功績と、その献身性は未来永劫、語り継がれる。

2019年、怪我にもたびたび泣かされた小柄なボランチは「闘犬」としてのサッカー人生にピリオドを打った。


下薗昌記(しもぞのまさき)
大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科を卒業後、全国紙記者を経て、2002年にブラジルに「サッカー移住」。
約4年間で南米各国で400を超える試合を取材し、全国紙やサッカー専門誌などで執筆する。
現在は大阪を拠点にJリーグのブラジル人選手・監督を取材している。


月刊ピンドラーマ2022年6月号
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