コミッション作品#4 翠玉塔と橙のランタン

 時間と距離に縛られない、山のあなたのその遠く。切り立った岩山の連なる大山脈のほとりに大樹が生えておりました。峻厳な景色を見下ろすほどに高く生い茂ったその樹の梢に、その灯台は建っています。
 なぜこんな場所に灯台を建てたのでしょう?それは、青い大海原ではなく、灰色の知識の海を照らすためでした。
 さて、灯台には灯台守という名の管理人がつきものですから、ここエメラルドの灯台にも住み込みの灯台守がひとり付けられておりました。栗色の髪を肩のあたりでふっつりと切り揃え、黒いベレー帽をいつも被っている若者です。知識の山脈を往く人々が迷わぬよう、みどり色の炎を絶やさぬように努める他には、本を読んだり、自室の窓から下界の様子を眺めたりして暮らしておりました。

 ある嵐の夜のこと。灯台守は寝ずの番をしておりました。万が一にも灯火が絶えたら一大事です。けれど、灯台はしっかりとした石造りの建物でしたし、この灯台が建っている大樹は都の石造りの大通りにも負けないほどに大きく、そして頑健な枝ぶりをしていましたので、風雨や大樹の灰色をした葉が擦れ合う音が聴こえて来たり、暗闇の向こう側から窓硝子に大きな雨粒が叩きつけて来る他は、いつもの平和な夜とさほど変わりも無いのでした。
 灯台のてっぺんの水晶と金属で出来た籠のような部屋──これを灯楼と言います──に詰めた灯台守がみどり色の光をたよりに本のページを繰っていると、階下から鈍い音が響いてきました。これは正面出入り口のドアをノックしている音に違いないと灯台守はすぐに気付きます。いつもなら明け放している扉なのですが、流石に嵐が来ているものですから、この日ばかりはぴったり閉ざして鍵をかけていたのです。
 灯台守は簡易寝台から降りると柔らかい起毛革でできたうわばきをはいて、燭台を片手にはしごを下りて行きました。階段の踊り場に出る間も、らせん階段を降りて行く間にもノック音は続いております。
 ようやく地上に着きますと、小走りになってホールを横切ります。扉を開けると、暗やみの向こう側から風雨が灯台守めがけてぱっと吹き込んで来ました。そして眼前には分厚い外套を着こんでフードを目深に被り、長い杖を携えた人物が立っていたのです。
 こんな夜に玄関口で長々と挨拶を交わすものではありません。灯台守が「どうぞお入りください」と手短に伝えますと、旅人らしき人物も心得ているようで頷くが早いが足早にホールへ入って来ました。灯台守はそれ以上雨と風が吹き込まぬように急いで扉を閉めますと、再び鍵をかけながら外が思った以上の風の強さだったのを思い出し、念のためにとかんぬきも降ろしました。
 灯台守が振り向くと件の客人は濡れた着物と荷物を大ざっぱに拭いているところでした。お湯を用意しましょう。ご入用なら乾いた服もお貸しします、と灯台守が提案すると、丁重にお礼を述べてからお言葉に甘えますと言いました。そして、持参した糧食に使うためにと飲用のお湯も貰えませんかと遠慮がちに付け加えました。
 この深夜のお客が灯台守の渡した乾いた衣服と足湯でひと心地ついた頃、ぽつぽつと自らの事情を話し始めたところによれば、巡礼の旅をしている最中ということでした。ですから、これからこの人のことは巡礼者と呼ぶことにします。
 しばらくお茶をして、夜も更けた頃合いだったので灯台守は灯台の火の番に戻ることにします。その時に、いくつかある空き部屋は自由に使って構いませんよと巡礼者に告げるのも忘れませんでした。

 しらじらと夜が明けても嵐は未だにこの土地に留まっておりました。けれど、風の勢いがこれ以上強くなる様子は無さそうで、水晶の板が破れることや合金の枠がはじけることをこれ以上心配することも無さそうです。あれからも夜を通して火の番をしておりました灯台守は、少し休もうと灯楼からはしご伝いに階下の灯室に移ります。ここは灯台守が普段生活する部屋でもあるのです。
 何刻か経って仮眠から覚めた灯台守が、食事をしようと部屋を出ました。ついでに巡礼者も誘ってみようかしらんとらせん階段を下って行きますが、どの空き部屋を覗いても巡礼者が休んでいる様子がありません。不思議に思いながらとうとうエントランスまで降りて見れば、ホールの隅にうずたかく詰まれた布の小山がありました。いえ、巡礼者が手持ちの防水布やらターフやらを身体に巻き付けて眠っていたのです。傍らには立て掛けた杖とどこに括りつけたのやら、ロープが張られており外套とショールを引っ掛けて干してあります。
 たまげた灯台守が急いで揺り起こして問い質してみると、どうやら巡礼者はなるたけ灯台の資産を使わぬように、当人なりに気を回したつもりということでした。
「着物を貸していただいたおかげで風邪をひくことも無く服を乾かすことができましたし、腹は持参した糧食で満たしましたから、そちらの資産を浪費せぬように気を付けております」とかしこまった様子で言う巡礼者に、灯台守はこんこんと諭します。
 この嵐はしばらくの間続くであろうこと、灯台には使っていない個室がいくつも有るので自由に使って構わないこと、食糧や水の備蓄の量も示してお客の1人や2人の分をまかなっても不自由しないことも巡礼者に納得して貰えました。

 やり取りをしてわかったのは、二人の物の考え方はとても違っていて、同じ言葉であっても使った側と受け取る側とで意味が食い違うことが多いということでした。なので、灯台守には巡礼者の気持ちを推しはかることがひどく難しいのでした。そして、巡礼者も同じように灯台守の意図を推し量れないと告げ、申し訳なさそうに謝罪をするのでした。
 灯台守は、それはどちらかがどちらかへ謝らなければならないことだとは思っていなかったので、巡礼者が深々と頭を下げる様子に、更に困惑してしまうのでした。
 そんなこんなで、始まって早々に食い違いを見せた二人の共同生活でしたが、灯台守が二人分のお茶を淹れることに慣れて、巡礼者の作る煮込みの塩加減がお互いに美味しく感じるところへ落ち着いた頃には、気の置けないおしゃべりもするようになっていたのです。

 ところで、巡礼者が携えている杖にはランタンがひとつ下がっておりました。このランタンには常に小さな炎が灯っておりましたが、どういう訳かこの赤味がかった橙色の種火はつねに揺らめいていて、不意に大きくなったかと思えば前触れも無く熾火のように小さくなったり、ちっとも安定しないのでした。
 最初の火が神さまの御許から盗み出されて随分と経ちますが、今でもその恐ろしさは変わりません。扱いを間違えばあらゆるものを焼き尽してしまう、怖いものです。灯台守はそれを良く承知していましたので、巡礼者の持つ炎の不安定さがとても心配でした。もしもひとたびランタンから火種がこぼれるような事が起こったら、きっと真っ先に焼き尽されるのは、巡礼者その人なことでしょう。
 灯台守は巡礼者を繰り返し説得しました。けれど、どんなに心づくしに諭しても、巡礼者はただ首を横に振るばかりでした。
 灯台守はため息をついて、灯楼の中心で静かに光を放つエメラルドの炎を見上げました。巡礼者が望むのなら、この翠色をした火を分け与えたってかまわないと、灯台守は思っています。
 嵐はとうに過ぎ去っておりましたが、登山道が崩れていたり、星の巡りが良くなかったり、様々な理由で巡礼者はまだ灯台におりました。灯台守も、それをとがめだてはせずにいます。いえ、むしろここに留まる限りは巡礼者の破滅が先送りにできるような、今のうちに巡礼者がどうにか安全な道のりを行くよう心に決めてくれやしないかと、そんな事を思う時もありました。灯台守はただ、巡礼者の身を案じていたのです。

「旅を続けるのですか?」
「はい」
 それでも別れの時は訪れるもので、巡礼者が旅を再会するための理由が百個も思いつくいっぽうで、この場に留まる理由がもう一個も無い、そんな日がとうとうやって来ました。

 その夜、巡礼者は灯台守へ夜が明け次第、灯台を出ていくつもりだと告げました。灯台守は頷いて食後のお茶にしませんか、と巡礼者を誘いました。
 会話は自然と、お互いが所有する灯火についての話題に移り変わりました。最近の二人の会話は、もっぱらこの件に関しての意見交換になっていたからですが、その日がいつもと異なるのは、巡礼者が少しだけ自分の事情を喋り出したところにありました。きっとそれは、これが二人でする最後のお茶会だからなのだろうと灯台守は察します。

「──この火種は私が自分で熾したものなのです。だからといって固執するべきものでは無いのは知っています」
 ならばどうして、と灯台守が問いかけようとしたのを予め知っていたかのように、巡礼者は無言で首を横に振って話を続けます。
「今の私がこの灯台の火を借り受けたら、まるでそれを古くからの自分の持ち物のように振りかざしてしまうことでしょう。私は、それを自分に許すことができないのです」
 それは灯台守にとっては意外な理由でした。巡礼者は自分自身で熾した火に魅了されていて、その危険なところを見ないようにしているのだとばかり思っていたのです。それが、灯台の灯火を手にすることを辞する理由に巡礼者自身の弱さを挙げるだなんて!

「でも、なにかを焼き尽すかもしれません」
 口をついて出た言葉に、巡礼者は答えを返しませんでした。静かな表情は、むしろ微笑んでいるかのようです。
「夜明け前に出立します。シーツは洗濯場に出しておくので構いませんか?」
「いいえ、部屋に置いたままで。後でまとめて片づけておきますから」
 巡礼者は頷くと、灯台内での最後の休息を取るべく去って行き、そして数時間が経ちます。夜が明ける寸前の、稜線越しの空が徐々に明るくなった頃合いのことでした。あたりは青色の光に満たされて、まるで世界が丸ごと色水に沈められたようです。一幅の絵画の様な光景を横切って、巡礼者が歩んでいます。灯台守は、自室の窓ごしのその姿を眺めておりました。青一色の世界の中で、夕陽色をした杖の燈火だけが、かすかに、しかし途切れることなく道行きを照らしております。振り向くこと無く、インクブルーに沈む遥かな山稜を目指して歩き去って行くのを、灯台守はただじっと見ていました。
 エメラルドの灯がゆっくりと回転しながら群青色の空を横切ります。巡礼者は、しばし足を止めて翠色の光の帯を振り仰いで眺めておりました。

 そして、灯台に向かって振り向くと一礼して、今度こそ二度と振り向かずに歩き去って行ったのでした。
 灯台守は、嵌め殺しの硝子窓から視線を外すと、朝のお茶を淹れるために自室を出て行きました。今日からはまた、小ぶりな方のやかんでお湯を沸かす日々です。

謝辞

当作品はウンフェルス様より頂きましたリクエストに基づき執筆したものとなります。
ご依頼ありがとうございました。

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