何者でもなくなったあとで

昨年の話になりますが、ツイッターを辞めました。その時のことを書いておきます。

元々私はイラストを描いていた人間でした。
大学に入り自分のパソコンを手に入れたことを機に、その時流行っていたいくつかのイラスト投稿SNSやお絵描きチャットにハマり、あれよあれよという間にイラストを描くことが当たり前の生活になっていきました。

そのうち偶然pixivでランキングに入り、恐ろしいほどの評価を浴びせられ、身の丈に合わないと思いアカウントを削除。
それでもイラストを描くのは好きだったので、描いては投稿してを繰り返していました。

その後活動拠点はツイッターに移り、熱心に描いては投稿し、仲良くなった方達に見てもらえたり、時にはイラストの依頼を頂いたりして、何となくこのままイラストを描いてずっと暮らしていくんだと思っていました。

と同時に、自分のイラストには価値は無いのだなということは同人誌や物販の売れ行きから薄々分かっていました。
お金を出してくれるのは熱心に応援してくれる数名の方のみ。
それでもいつかは大勢の方に見てもらえるようなイラストを描けたらなんて思いながら落書きなどで絵描きとしての自分を保っている状態でした。

そんななか、プライベートの環境が変化しイラストを描かなくなっていきました。
また、AIによってイラストが自動的に生成できるようになったのもこのあたりでした。

1年2年とほとんどイラストを投稿しない時期が続きました。いつかまたイラストを描く生活をと思っていましたが、あることをきっかけにイラストを描くことをやめました。

イラストを描かない自分は果たして自分なんだろうか。自分がイラストによってその関係を築いてきた方たちは、イラストを描かない自分を必要とするだろうか。
また、自分がイラストを描く意味は本当にあるのだろうか。今やイラストは自分が描かなくてもいいのではないか。そんなことを考えツイッターのアカウントを削除しました。

イラストを描き始めて10年以上、イラストを描く自分というものがネットの中に存在し、それを2つ目の人格のように認識していたように思います。
生きがいと言うと大袈裟ではありますが、イラストを描く自分によって人生が大きく変わったのも事実で、だからこそこんなに簡単にイラストが描かなくなってしまったこと、描くことを諦めてしまったことが、情けなくみっともない気持ちでした。
同時に、叶うかも分からない夢をもう追わなくて済むのかという清々しい気持ちにもなりました。

最初はイラストを描くのが楽しかったのに、結局誰かから評価されることを喜びに感じていたんだなと自覚し、呆れた気持ちもありました。
ただ、絵を描いていたことで知り合えた方はツイッターで認知しており、遠くに住んでいる友人の日常を垣間見るように生存確認をしていました。
おそらくお互いそうだったと思います。
中にはネットを始めた当初からの仲の方もいて、10年以上関係を続けてきていました。

その関係を断ち切ってしまったと後悔しました。

そんな年が終わり、新しい年がやってきて早々、地震が起こりました。


私は静岡に住んでいるので、被害はありませんが、多くの人の日常が壊れていく様を目の当たりにしながら、関係を断ち切ってしまった友人達の安否を心配しました。

もうアカウントを復活させることも、全ての方をフォローし直すことも不可能になってしまいました。

そこには確かに人間関係があり仲間がいた。
自分が何者でもなくなったとしても、それは変わらなかったかもしれないのに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?