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ESCAPE③

新しい日常

 朝早くに目が覚めた。旅先ではいつもそうだ。仕事も家事もない場所に来たというのに。自分だけのために使っていい時間はたくさんあるのに。やっぱり早く目覚めてしまう。そして起きてすぐに思ったことは
「今日はお弁当の日だっけ」
それと同時に冷蔵庫に何があったかを思い出そうとしていた。
習慣ってすごい。

 結局昨晩寝る前に夫に「無事到着しました。疲れたから寝るね。」とだけメッセージを送った。出発前の私は頑なに「自分のためだけに使う一ヶ月なんだから」と言い張って「連絡も出来るかどうかわからない」なんて伝えてはみたけれど。
昨日綺麗な星空を見た時夫の顔が浮かんだ様に、きっとこれからも美味しいものや綺麗なもの、心動かされるものに出会う度に夫の顔が浮かぶんだと思う。そして夫を恋しがる。到着一日目にしてわかったことは、そういうこと。情けないけど、認める。でもきっとこの生活にも一人にも慣れてくるのかな、という期待もある。
そんな自分の心の変化に身を委ねることを楽しめるくらい、私は大人になっているはず。

 とにかく昨日は倒れこむ様に寝てしまって冷蔵庫は空だし、散歩がてら買物に出ることにする。日本で近所を買物する時はマスクをしているのが心地良いとも思っていたけど、ここは新しい日常と新天地を楽しむために敢えてノーメーク。昨日見かけた旅行者たちみたいにTシャツと短パン、とはいかないまでもTシャツとワイドパンツで出かける。湖までの緩やかな坂を下り湖を右手に見ながらしばらく歩く。日差しが強い。サングラスくらいしてくれば良かった、と後悔。でもこの開放感がたまらない。もうすぐ生まれ変わろうかって年なのに、気分は20代みたい。こうして見たら私だって捨てたもんじゃないはず。メイクもしていないのにそんなに大きな気持ちになる。心が若返った感じで、いい気分だ。

 スーパーはこじんまりしているけれど、一通り必要なものは揃いそうだ。考えてみるとシャンプーや歯磨き粉だって無い。全部現地調達すればいいや、とスーツケースの中は半分くらいしか荷物を入れてこなかった。旅慣れしていたのは20年も前のことなのに、なんだかこの国に再び戻ると思うと気持ちはバックパッカーだった。服は現地の教会のバザーやセカンドハンドの店で買うのも楽しいし、スーパーに売ってあるものならわざわざ持って行く必要はない。ただ、文具は日本のものの方が手に馴染んでいるしこの国の文具は高いから、と一通りものを書くセットだけは持ってきた。ゆっくり文章を書いてみるのも面白そうだし。
 いかにも歯が白くなりそうな歯磨き粉や、ココナッツの香りのシャンプー。出来るだけ日本で見かけないものを買ってみた。お腹が空いたので、サンドイッチを買って帰り道に湖の側のベンチに腰掛けて食べる。コーヒーが飲みたかったけれど、見当たらないからパックの子ども用ジュースみたいなのを買った。パッケージにあるカラフルな恐竜のイラストを見ながら、これが今流行りのキャラクターなのかな…と自問自答。やっぱり一人は淋しいのかも知れないけど。若い頃のひとり旅で一番好きなパートだったのは、この「自問自答」だったということも思い出した。今は瞬時にSNSでこの感動をシェア出来るのに、20年前の私はどんな風にこれを人と分かち合おうとしたんだろう。そう言えば、行く先々でポストカードを書いては実家に送っていたっけ。私が感動した景色や体験したすごい話は、大体一週間後、私がすっかりその感動も出来事も忘れてしまった頃に家族の元に届いていたのだ。どんどん便利になる技術の進化を否定したくなることも多々あるが、このSNSには私は随分助けられていると思う。
 でも今見える景色も、食べているサンドイッチの味も、静けさの中に聞こえる鳥の声も全てが気持ち良くて素敵なのに、さすがに小さなこと過ぎて人に伝える程のことではない気がする。だから、私はこの時を贅沢に自分だけで楽しむことにした。こうしてここでの毎日が過ぎていくんだと思う。 

4月12日

 "今日からこうして一日の終わりに今日のことを送るね。
今日は朝ごはんにサンドイッチを食べました。
お昼はフィッシュアンドチップス。全部食べきれなかったから、夜に少し和風に味付けして食べました。さすがに飽きたよ。
静かな夜。部屋の前の椅子に座って星空を眺めながらこれを打ってる。
良い写真が撮れたら送るね。

そちらのことも教えてね。
あ、私英語忘れかけてるみたい。
ここにいる間に思い出せたらいいな。おやすみ。"

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