人が人を助けられるなんて
授業の中で、私は学生たちと約束をします。「あなたがた一人ひとりは私の宝なんだから、死んじゃだめよ。死なないでね。死にたくなったら、『苦しいから、もうちょっと生きてみよう』とつぶやいてごらんなさい」と。それでも死ぬ人がいるのです。
その時ばかりは、「なんて私には力がないのだろう」と、本当に無力感にとらわれてしまいます。
でも、それは当たり前のことなのです。
私が話をしたら、自殺を思い留まってくれるー、そんなことはないのです。人が人を助けられるなんて、大変な思い上がりだと思います。
私は私にできる限りの事をするだけです。あとはその人の自由です。
ただ、人には「生きよう」という根元的な願いがあります。今、その願いが何かによってブロックされているために、「死んだほうが楽だ」という気持ちになっているのなら、そのブロックを取り除いてあげる、そのお手伝いなら、少しはできるかもしれないと思います。
それは、心をこめて相手の言うことを聞いてあげることであり、その人にほほえみかけることであり、何か手助けをすることなのではないでしょうか。
そのことが、その人の中にある生命力を喚起したり、根元的な「生きたい」という願いを目覚めさせて、「もうちょっと生きてみよう」と思う気持ちを起こさせてくれたら… と祈るのです。
今回引用した部分は、著作の中でも、とても重みのあるテーマです。なぜ取り上げようと思ったかといいうと、そっくりそのままお伝えしたい人が身近にいるからです。
私の身近な人のごきょうだいが、数年前の知人の自死をきっかけに精神不安定となり、音に過敏に反応を示したり、長い時間の会話が困難になったというのです。兄であるその人も、弟を見かねて苦しんでいます。
きょうだい本人にはお会いしたことはないのですが、話を聞く限り文武両道の神童で、立派な職業についている優秀な方です。勝手な憶測ですが、少なくとも学校や就職において、つまづいたりする経験がなく、なんでも出来ることがスダンタードだったのではないでしょうか。根がとても繊細とのことなので、知人を「救えたに違いない」「なのに何もできなかった」と、ずっと自分を責めているのではないかと思います。
もしかしたら、救えたのかも知れません。手を尽くしても、救えなかったのかも知れません。シスターは「人が人を助けられるなんて、大変な思い上がり」と書かれていますが、私は、すでに固い決断をした人を「救えたとしたら、それは奇跡だった」とおもうのです。周囲ががんばって結果どちらになるかは、人間が決められることを超えているのでしょう。
結局、他人を救うことは究極的にはできない、人を救うのは本人の自助努力と自己治癒力のみだ、と思い知った経験があります。様々な理由で苦しんでいる大切な友人達が、私の周りにいました(います)。仕事で能力を望むように活かせないこと、家族との現在進行形の確執のこと、子ども時代のトラウマ、心身の不調のこと。目の前の人の苦しみを減らしてあげたい、楽にしてあげたい、そう思って、人は色々と他人にアドバイスをしたり、安易に慰めたり、「あなたはそれでも恵まれている」とか「何事も良い面と悪い面があるものさ」なんて口走ったりしてしまうのかもしれません。「この人を自分は助けられる」と思ってしまうと、いつしか一緒に苦しみだす自分がいました。そういうとき、なんの進展も生まれませんでした。
それは、人を助けるということは、人間業ではないからです。人間業ではないことを自分には出来ると思い込んで、やろうとしてしまうから、無理が生じるのです。唯一できることは、本人の自助努力と自己治癒力の萌芽を見つけ出し、気づいてもらうこと。それが適切に育まれるよう、支援を要請すること… それが、私にとっては、祈りです。この苦しんでいる人が、いまは本人の目には見えていない「進むべき最良の道」、「本人らしく自分を発揮できるあるべき道」に、神によって導かれますように(かつ本人もそれを望んで行けるように…)、と…。結局、それが一番の近道であるな、と悟りました。その祈りを行うために必要な情報を、お悩み相談に乗ることによって引き出す、という方法に変えてから、私も楽になりました。そのほうが不思議と、どうやら良い展開が生まれるようだ… という経験がたくさん積み重なり、その度に、私自身の中でも、神への信頼が深まっていっていると感じます。
苦しんでいる人を前に何もできないことを苦しんでいる人に、祈りをおすすめしたいと何度思ったか。でも、神を想う気持ちをまだ持っていない人に、それを伝えることは出来ないのです。どうしよう、と思った時、ある心理カウンセラーのYouTube動画をたまたま見ていたら、とてもヒントになる言葉がありました。
「あきらかに自分が被害者の立場でも、自分側に責任が無いように思えても、苦しい時に赦す相手は常に自分自身」と。
身近な人の自死を食い止められなかった「悪いやつ」である自分を、がんばって「許す」。無かったことにするのか、というと、そうではなく、「許す」というのはとても建設的な努力がいると思います。自分の人生のなかで培ってきた、善悪基準や正義観を、曲げなければいけないのですから…。
苦しみや過去に自分の才能や能力ごと抑えつけられてしまう自分をやめて、解放されて、軽やかに朗らかにフワッととぶように活躍していけたら、いいなあ。周囲の才能豊かな人たちをみて、思います。
続きます。