私も許されて生きている
許しがたい人を許し、愛しがたい人を愛することは、自分が自分と戦うということであり、英雄的な勇気を必要とします。そのためには、本当に悔しい思いをすることがあるかも知れません。自分が損をすることを受け入れないといけないこともあるでしょう。
あいさつをすべき人がしない。それだけでも腹が立つのに、その無礼を許すだけでなく、次の機会に、こちらから「おはよう」と言うとすれば、それはダブルの損です。でも、人間、ダブルの損をしないと、心の平和は得られません。マイナスとマイナスはプラスになるのです。
相手からの意地悪、無礼、攻撃、そう言うものに対して、仕返しをしたいと思うものです。
でもその時に、私も許されて生きていることがたくさんあるのではないか、と落ち着いて考えてみることです。そして、自分もまた許されなければならない人間なんだと気づく時、相手を許しやすくなります。(中略)
人生は自分との戦いです。人を愛し、人を許して生きていくということは、とても難しい時があります。しかしながら人を許すこと、損をすることは決して損ではないということ、より良い自分のいのちの時間を生きるためには、とても大事なことだということを、いつも忘れずに生きていけたらと思うのです。
私はクリスチャンという立場には至っていないのですが、主の祈りを心の拠り所にしています。
主の祈りの真ん中に、「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」という文言があります。これは、まさに、シスターの書かれたことが一行に詰まった文だと思うのです。
私もすでに知らないうちに、失礼なことを言ったりやったりして、何度も何度もあちこちで許してもらっているのだろう。だから、目の前の人の意地悪、無礼、攻撃を少しは許せるようになろう、と。
人間、損をしたくない動物です。私も損は大嫌いです!なので、自分だけが損害を被ったと思ったことにより、人間トラブルを引き起こしてしまったこともあります。インターンとして働いていた時のこと。私が残業してまで無断欠勤した人のタスクをすることが続き、嫌になって本人に大クレームを入れたら、逆上され、私も全く折れず、なかなかの修羅場となり、多大な迷惑を周囲にかけました。
ここで私の心を一番占めていたこととは、「恩義のない他人ためにタダ働きをしてあげて、大損をした。フェアじゃない!」という考えです。
この時、私の頭の中には、「私ももしかしたら、どこかで誰かに仕事を押っ付けてたのかもしれない… 誰かの時間をうっかり削ってしまったこともあったに違いない… 腹は立つけど、高いところから見ればきっとお互い様だな」という考えは、一ミリもありませんでした。(だからと言って、やられっぱなしには異議ありですよ。)
そもそも、与えられた命、与えられた時間。頼んでもいないのに。ただでもらったわけです。考えてみたら、すごいことです。「自分だけのもの」と思う方が、奢りなのです…。福音書にも、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」という言葉が残されています。もらった命を「生かさせてもらっている」、もらった時間を「なるべく有意義に使いたい」という考えを、心の片隅に置いておきたいと思い、ここに記します。すぐに忘れてしまうので。
続きます。