脱いだはき物を揃える自由
私たちは、自由とは何でも好き勝手にすることだと思い違いをしがちですが、自分が今何をするか、あるいは今はしないでおこうといったプライオリティ=優先順位を自分で決める自由が、人間独特の自由なのです。
たとえば、もっとテレビを見ていたいと思っても、レポートを書かなければならない場合は、テレビを消してレポートを書くというように、自分の判断、意志の力で、それを選ぶことができるし、それを選べる人が「自由人」なのです。
東京に自由学園という学校があります。今から八十余年前位に、羽仁とも子、吉一夫妻が創立した学園で、自労自治を旨とし、「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」をモットーにしたキリスト教主義のユニークな教育を行っています。
私が感心した羽仁とも子さんの「自由」についての言葉があります。「あなたがたには、脱いだはき物を揃える自由があります」というのです。それは、「揃えない自由もある」ということなのです。
どちらがより良い生き方なのか、脱ぎっぱなしにするほうか、揃えるほうか、そのより良い方を考えて、選ぶということなのです。日々の生活の中での小さな自由の行使は、実は大切なのです。「自分らしさ」を作るのは、このような小さな自由の行使の積み重ねなのです。
「もし神がいるなら、なぜ悪い人間がいたり、悪い社会が存在するのか?なぜ戦争や貧困や差別や犯罪をほったらかしにしておくのか?だから、神はいないに違いないのだろう」という意見は、昔も今もなくなりません。神はいると主張する意見とは、永遠なる平行線です。
私も、このテーマに関心を持って、色々な本を読んできました。未来を見通せて、なんでもできる神は、悪いことや迷惑行為をする人を事前に止めないのか。そもそも人間が悪いことを思いついたり行動に移せないように「プログラム」しなかったのか。(「『ふしぎなキリスト教』と対話する(著・来住英俊)」という本のなかで、たくさん論じられています。)
ちゃんと覚えていませんが、来住神父が書かれていたことは、次のようなことだったと思います。悪いことが一切できないようにするということは、人間の思考力そのものに制限をつけるということ…、それは果たして素晴らしいものを自由に生み出す創造性をそこなわずにいられるのだろうか…。
よく目にしてきた答えは、人間は「自由意志」を備えているということでした。
良いことをする自由も、悪いことをする自由も、またはどちらもしない自由も、わたしたち人間はもっています。どの選択肢も等しく出来てしまうからこそ、自分が損をする状況においても、日の目を見ないとしても、より良いほうの判断を選びとれるということは、とても尊い行動なのだと思います。そういう目で自己を常に振り返ることのできる自分でありたい(になりたい、のほうが正しいです…)です。
靴の例は、「神とは、人間とは」という神学の一大テーマが凝縮された話のように感じました。
続きます。