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瞑想的なパンケーキ屋
「"瞑想的"な生き方、"瞑想的"な生活を僕は伝えたい」
そんなことを常々思っているのですが、"禅"と欧米で評価されている"Zen"との違いのように、"瞑想"と僕の言う"瞑想的"の違いを伝えることは難しいのが目下の悩みです。
禅とZen
欧米ではこんまりさんが"Zen"だと評価されているものの、日本だとそういう捉えられ方はされてはいない。でも、"禅"という日本の文化から派生したもの、その文脈に彼女は存在していることは間違いないし、それを"Zen"として生活をよりシンプルにしようとしたり、より自分らしさを取り戻そうとする試みは間違いなく、素晴らしいものです。
瞑想を伝えることの難しさ
"瞑想"というと世捨て人的なもの、或いは意識高い系の人たちが取り入れているらしく真似てみたけれど、よくわからなかった退屈なもの。そんな印象を持たれているんじゃないでしょうか。僕は"瞑想"もしているので、瞑想について話したいこともない訳ではないのですが、瞑想をきちんとしている人ほど、瞑想を語るのに慎重になります。瞑想ビジネスをしている人の多くは迷走していて、瞑想の指導をして経済的に成功している人が抗うつ剤を飲んでいたり、不眠に悩んでいたり、サイコパス的な行動をしているなど枚挙に遑がありません。瞑想を実践し続けていくと、このことを語ったり、伝えたりすることの難しさに気づきます。伝える言葉を持たなく、持てなくなっていきます。
瞑想的とは
一方で、僕が提案したい"瞑想的"なものは説明がしやすく、他人にも薦めやすい気がします。禅寺での修行は敷居が高いかもしれませんが、Zen Habit(禅的な習慣)を意識して部屋の片付けをしたり、ながら作業を減らすことはより明確で容易、敷居が低く効果も即時的です。同じように、瞑想よりも瞑想的は敷居が低く、瞑想的な生活を是非皆さんに取り入れて欲しいのです。
例えば、今日。
わざわざ、予約しなければ食べられないパンケーキを食べに行ってきました。
瞑想的なパンケーキ屋
まずネット上で、予約券を買い、そして当日、お店へ。着席した後、オーダーを取りに来てくださった店主にパンケーキを注文します。「90分ほどお待ち頂きますが...」と告げられ、同意して、静かに待ちます。
30分でもなく、60分でもなく、90分です。
パンケーキを90分静かに待つ行為、そして90分かけて丁寧に作られたパンケーキ。過去食べたパンケーキと全く違う異次元の存在であることを気づける贅沢な体験。パンケーキを丁寧に味わう瞬間瞬間。
そういった時間や体験が僕が伝えたい、瞑想的な生活。瞑想的な時間です。
1人で過ごす
当日、満席でしたが、皆さん1人で来店されていました。90分静かに待てる友人や恋人、家族がいないのかもしれません。勿論、いるけれど、1人の時間を過ごしたかったのかもしれません。考えてみれば、一緒に静かにこの時間を過ごせる存在、なかなかすぐには思い浮かばないかもしれません。1人の時間になると、誤魔化すようにLINEやYoutubeにアクセスしてしまう人もいると思います。偶然かもしれませんが、本を読んで待つ人、ぼんやりと待つ人。スマホを弄りながら、時間潰しをするといった人はいませんでした。皆、静かに落ち着いた時間を過ごしている印象でした。
児童小説『モモ』のように
騒がしい(忙しい)世界に生きている人には理解できない世界があります。騒がしい(忙しい)世界に生きている人は、自分の身体を自分の脳の奴隷のように扱っています。自分の心身の健康についても軽んじていて、癌や手術や入院の必要が迫られるまで気にかけることもできなくなっています。騒がしく、忙しく、慌ただしく、もっと速くの世界。"瞑想的"とは対局の世界です。
今日、僕が感じたこの贅沢な時間を過ごせる人が増えると、もっとこの世界は平和で素晴らしいものになると思っています。