「習慣」は努力とは別の世界の話
もうそろそろ「書く習慣」が身についたと言ってもいいだろうか。
いや、ぼくのことをそんなに簡単に信用してはダメだ。「もう大丈夫。よくやった!」とでも言おうものなら、途端に図に乗って「もう十分だ」に変換してしまうのがぼくなので油断ならない。
そもそも習慣は習慣なのであって、身につける技術などではない。
書くことが毎日の日課になり、さほど頑張ることなく書いていけることが真の「書く習慣」なのだ。
…なんだこの「書く習慣」の伝道師みたいな出だしは。
でもね、努力せず書けるようになっているのは本当。もっとも、最初から「努力して書こう」と思って始めた物でもないから、頑張っていたということもないのかもしれない。
言うなればより自然に書くことができるようになったということかな。
この感覚、努力でないとしたら一体なんなんだろうと考えてみた。
習慣は習慣だけれど、やらなくてもだれかに責められるわけでもないし、やらなかったら何かを失うということもきっとない。
例えば、その習慣が歯磨きだとすると、忘れると虫歯や歯周病になるリスクが増す。
入浴だとすると、もしかしたら汗臭くて翌日に娘から「お父さんクサイ」と言われるリスクが高まるかもしれない。まだ言われたことはないけど。
書く習慣はどうだろう?
やめることに特になにかのリスクがあるわけではないが、ぼくはなんとなく書き続けている。
ちなみに、書くことのメリットは以前書いた↓↓の記事のようなことだと思う。
メリットがあることはぼくだけじゃなくて、みんなが言っている。これを読んでくれているあなたも、書く習慣によって得られた何かは持っていると思うんだ。
ただ、やめてしまって困ることがあるかと言われると、今のところ何も思いつかない。
実際にやめてみると落ち着かないとか、何か言葉に吐き出したいという思いが噴き出してくるかもしれないね。だけど、そういう失うものとかデメリットを気にして続けているということでもない。
じゃあ実際にぼくが「書く習慣」を続けている原動力はなんなんだろう?
今、10秒間動きを止めて考えてみたんだけど、何も思いつかない。
あえて思いついたことを書いてみると
「暇つぶし」かな。
言い換えるなら
「なんとなく」かな。
もうちょっと違う言い方をすると
「ただのあそび」かな。
・・・ふざけてるとしか思えないよね。
でも、本当にそんな感覚なんだ。ちょっと意識高めの表現をしてみると
「無」かな。
無の境地ってやつ。これならかっこいいかもしれない。
でも、ちょっと抽象的すぎて腑に落ちない。
暇つぶしの根拠ならなんとなく出てくる。
だれかがゲームして暇をつぶしていたとする。その同じ時間に、ぼくはnoteを書いている。それは別に褒めれるようなことでもなんでもないし、頑張っているということでもない。
ぼくもゲームに夢中だったことがあったけど、その時間が今はnoteを書く時間に変わったというだけ。なぜそうなったかと言われれば、その方が今は楽しいからなんだろう。
いや、「楽しい」とはちょっと違うかな。ゲームをやっている時でさえ、ぼくは楽しいというよりもなんとなく暇つぶしでやっている時が多かった。
だから、noteを書くようになったからと言って、ゲームをやっていた時の気分とそんなに大差はないと思っている。
ただ一つ挙げるとするならば、ゲームをやるのとnoteを書くのとでは、やり出す時のハードルの高さが違うことかもしれない。ぼくの中では、ゲームを始める時よりもnoteを書き始める時の方がハードルは若干高い気がしてる。
でも、若干だね。スマホのアプリを立ち上げたり、パソコンを開いたりした時に何も考えずにとにかく書き始めてしまえばなんてことはない。noteをやっている時間もゲームをやっている時間も、どちらも同じぼくの人生の時間の一部だ。
それから、noteを書いている間はゲームをやっている時のような高揚感や快感というのが得られることはない。逆にゲームが上手くいかなくてイライラしたり落胆したりするようなことも、noteでは起こらない。
だからやっぱりnoteを書いている時は「無」なんだろう。
ここにきて「無の境地」の伏線が回収できたね。おめでとう。
あとはnoteを書いていて思うのは、書いた後の読後感ならぬ「書後感」が得られるのは確かなんだけど、そこに至るまでには若干のストレスを伴う。
それは例えば成人マンガ家であるぼくの妻で言うところの「産みの苦しみ」というやつかもしれないね。
そういう意味ではサウナに例えたさっき紹介した記事は我ながらになかなか的を得ていたのかもしれない。
自分が思った以上に皆さんから反響もいただいていて、素直にうれしい。
習慣とは怖いもので、書く習慣が染み付いてきているいま、今度は「書き出すと止まらない問題」が噴出して困っている。
noteの記事のネタを思いつくたびにスマホアプリに箇条書きにしたりしているんだけど、何かを思いつくとそこから連想する何かをまた書いていくといった具合で、どんどん箇条書きのリストが増えていってしまう。
気づいたら箇条書きだけで1000文字くらいになってしまったりしていて、それはもはやそのまま記事にしてしまえばよかったんじゃないかと思うことも最近はよくある。
ただこの下書きの箇条書きが長くなってしまうのにも理由があって、それはやっぱりぼくの記憶力の信用のなさに付随している。いま思いついたことというのは、即座にメモなどの文字に起こしておかなければ、5分後には宇宙の彼方に葬り去られてしまうのだ。
せっかく思いついたことを、noteの記事にできないままに悔しい思いをするのは嫌なんだ。
「書く習慣」の沼だねこれは。
書くために、書く。
どういうこと?
ナニコレ意味わかんない。なんて言うんだっけこういうの。
今、10秒間動きを止めて考えてみたんだけど、言葉が思いつかない。
「デジャブ」みたいな、そんな感じの意味の言葉だよ。誰か教えてくれ。気持ち悪過ぎる。まあいいや。
とにかく、書く習慣のおかげで書く機会がものすごく増えちゃったってこと。
今日伝えたいのはそれだけ!
そういえば、昔読んだ伊坂幸太郎さんの著書「ゴールデンスランバー」の一節にこんなセリフがあった。
「人間の最大の武器は、信頼と習慣だ」
出典:ゴールデンスランバー(新潮文庫)[Amazon]
今日の記事とは直接関係ないんだけど、ぼくは伊坂幸太郎さんの本がすごく好きで、読書はあまりしない方なんだけど、この本は当時読んでめちゃくちゃ面白いと思った。他の作品もすばらしい傑作ばかりだけど。
読んだことがない人には是非ともオススメなので読んでおいてください。ユーモアセンスが抜群に好き。
最後どういうわけか好きな本の宣伝になってしまったけれど、そんなところで今日はおしまい。
じゃあ、またね。
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