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凡人には平凡力という強みがある

「いつか」って、自分で言ったはずのその日が実際にやってくることはあるのだろうか?

ぼくはいつもその疑問を抱いている。
その「いつか」がまさか小学生のツッコミのように「5日(いつか)」を指しているはずもなく、来たる日が来ることを願っている間に記憶の彼方へと追いやられてしまうのが世の常。

なんなら自分で「さもなかったかのように」してしまうことはないだろうか?
ぼくはその誘惑をまさに今、ブチ破ろうとしている。その「いつか」を生み出してしまった伏線とも言うべき記事はこちらです。

ここにぼくはその「いつか」を書いた…と思ったけどよく見たら書いてなかった!
でも「またの機会」と書いてある。これも同じこと。結局その機会は来ないことの方が多い。

だがしかし。

ぼくはまさにその機会を次の日に迎えてしまうという優等生としか言えないことを成し遂げようとしているのだ。

そしていま、この記事を読んでくれているあなたへ。

存分にぼくを褒めてください。褒める時はお約束の「スキ」でどうぞ!


どうも、ありがとう

まだ何も伝えてもいないこの記事で、もうその課題をクリアしたと思っていることがすでに「なんのこっちゃ」といったところだけど、ちゃんとこれから書きますよ。

書く内容は…これから決める。

ぼくは昨日、自分自身を

「熱量の無い人間」

「探究心のない人間」

と書いた。

これは受け入れるべき自分の特性。それはもう20代の時から何度も何度も自分を変えようと挑んできたが、それは叶わないと悟った。

あきらめだと言われてもしょうがない。

それはその通りで、自分でもあきらめた。

そのほうが潔いではないか。それを「あきらめ」と言おうが「受け入れた」と言おうがどっちでもいい。大事なのはそういう自分を自分で認めて、「じゃあどうするか?」を考える。

その前に、自分のその特性は本当に短所でしかないのか?というところから考え直してみる。

熱量がなく、探究心がないぼくは、何をやるにしても熱量を伴って深掘りしていくようなことができない。

それに加えて、ぼくはかなりの「保守思考」の持ち主だ。またの名を「ヘタレ」とも言う。
※決して世の中のすべての保守思考の方を総称するわけではございません!ぼく個人への呼称です。

とかく新しいことに取り組むのが苦手。いや、がんばって手は出す方だとは思う。
だけど、それに慣れたり習得するまでに相当な時間を要する。それは熱量の無さとも関係しているのかもしれないね。

生活環境でもそう。ぼくは今年、生まれてから40年経って初めて生まれ育った町から引越しをした。同じ地域内では2回ほど経験済みだが、まったくの県外への引越しは初めて。

隣の県とはいえ、田舎から都市部への引越しなので環境はまるっきり異なる。
今まさに住んでいるこの街に引っ越してきて、なにか不自由になったことはないけれど、やっぱり精神的にはどこかで馴染めない自分は居たんだろう。自覚はほとんどない。

でも3ヶ月ほど住んでみて、ようやく落ち着いて仕事やふだんの生活ができるようになってきているような気がした。
今まではまだまだどこかで自分がここに住んでいることに半信半疑な気分だったんだろう。

それは自分で意識しているわけではなく、これもぼくの中にある保守的な部分なんだと思う。


まとめると、こういうことだ。

  • 熱量がない

  • 探究心がない

  • 保守的

  • ヘタレ

なんだこのネガティヴの固まりのようなヤツは!

いや、それで終わったらこれまでのぼくと同じだ。そこから一歩踏み出すのが今日のぼく。
その答えは…まだ持ち合わせていない。だれかこの未知の森へ一緒についていってください。


このネガティヴワードを一つにまとめる一つの言葉を思いついた。

平凡

だ。

そしてこの平凡な人のことを

凡人

と定義する。…ふつうにある言葉をそれらしく言ってみた。うん、これでネガティブさ加減が若干和らいだ気がする。

ぼくは、凡人だ。

ではこの凡人のぼくには強みなんてないのだろうか。


あるね。


ぼくは昔から、とかく新しいことを習得するスピードが遅い。子供の頃から、みんなと一緒に始めたことでもみんなができるようになっている頃、ぼくはまだまだ練習を続けていた。鉄棒の逆上がりとかね。

今、思い返してみるとぼくって鉄棒が結構得意だった。でも習得にはかなり時間がかかった記憶がある。矛盾しているようだけど、そうなんだ。
きっと、コツを掴むまでにみんなよりも時間がかかるんだろう。

ただ、それで嫌いになるとかじゃなくてそれまでは必死にやっている。その時はどんな気分でやっていたのかは覚えていない。
周りのみんなよりも遅れていることに対する焦りなのか、馬鹿にされたくないという恐怖なのか、きっと「絶対に上手くなってやる」なんてポジティブな発想ではなかったはずだ。

でも一度コツを掴んで習得したらイイ気になるっていうのもぼくの特性。
またの名を「天狗」と言います。

上手くできるようになったことを何度も何度も繰り返す。ただ一度習得するとそれ以上のことを追求しようとはしない。そこは探究心の無さということなんだろうね。

大人になって何年も歳を重ねた今となってもその本質は変わっていないんだろう。習得に時間がかかるポンコツさ加減も、一定のレベルになって満足してしまう天狗精神も鉄棒で坂上がりができていい気になっていた小学生の頃と同じ。

ただ逆に言うと、習得した何かをずっとやり続けることは得意な気がする。きっといい気になったままでいたいのだ。気分良く何かを続けていたい
それがぼくなんだと思う。

新しいことにどんどん挑戦していくストイックな精神は一切持ち合わせていない。何かを極めようとする探究心も底が極めて浅い。
でも、ある一定の習得度まで到達してから維持することはできる。ノミの心臓なので、プレッシャーにはことさら弱い。

だからこそ、自分がちょっとばかり得意気になれることを続けたいと思うんだろうね。それこそがぼくの保守思考の源泉なんだと思う。

「自分がすでに持ち合わせているそれなりの能力」を使って淡々とこなすことがぼくには合っているのかもしれない。

「合っているのかもしれない」って、そんな偉そうに言えることでもなんでもないし、むしろヘタレを強調しているだけな気がしなくもないが、自分の中ではなんとなくスッキリした。


「自分ってこういう人間なんだ」って気がつけたことが今日の収穫。

それもこうやって淡々とnoteを書き続けているおかげ。
そしてそれを続けていられるのは読んでくれているあなたのおかげ。


低い木の上に止まった天狗になって、今日も呑気にnoteを書いている。
そんなことを続けているだけでも、自分を知るきっかけになったなら自分の人生にとっては少しはプラスになっているだろう。

きっとこれからもこれ以上に情熱を注ぐようなことはないのかもしれないけど、淡々と続けていくことがぼくの楽しみなんだと思う。

そんな天狗のぼくの記事、またいつでもお付き合いいただけたらうれしいな。


じゃあ、またね。


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