「何者」って、誰?
久しぶりに雨が降った、今日。
昨夜の天気予報アプリは「本日より5度気温が高い予報です」と速報で伝えてくれたので、めちゃくちゃ暑くなるのかと思っていたら、気温が高いのは最低気温の方で、最高気温は-2度だった。
なんのこっちゃ。
雨の日って、なぜだか最低気温は高い気がする。
「最低気温が高い」って、なんだか変な日本語な気がする。
最高気温は雨だからそんなに高くなることもないだろうけど。
「最高気温が高くなる」って、それもなんだか変な日本語の気がしない?
生まれてこのかた、ぼくは何者にもなれていないと思ってる。
なんとなく生きてきて、なんとなく仕事をして、なんとなくnoteを書く。
結婚して、子供もいる。マンガ家をしている妻や、イラストにダンス(お休み中)などに一生懸命な中一の娘は大好きだし、最高だ。
でも、ぼくはやっぱり何者にもなれていない。
それなりにもがいたり、やってみようと思うことに挑戦したりもした。お金持ちになろうともした。でも、今のところはこっぴどくやられた感しかない。全敗だ。
ゆいいいつ、自分のスキルとして「それなり」だなと思うのはITエンジニアとしてのプログラミング技術ぐらい。
それでも、IT業界には他に優秀な人はごまんといて、5万分の1にも入れているか自信がないくらいではあるけれど、ITエンジニアとしてのらりくらりと20年やってこれているのだから、まあ「それなり」なんだろう。
次から次へと新しい技術を習得していく意欲はない。難しいことに果敢に挑んでいく探究心もない。あるとすれば、今持っているスキルを使って淡々と仕事をこなしていく持続力だけ。
ぼくは昔から、新しいことを習得して自分が使える存在になるまでにものすごく時間がかると自負している。子供の頃からそうで、みんなができるようになったことの0.7倍くらいの速度でようやく習得する。「半分くらいの速度」と言わなかったのは大袈裟かなと思ったのと、あと半分はわずかなプライドだろうか。
とにかく要するに、ポンコツなのだ。
自分にはもっとできるんじゃないかと、いろいろな技術の習得を試みたこともある。でも、やっぱり物覚えが悪すぎて相当な時間がかかるし、覚えたことも右から左へ忘れていく。新しい何かを覚えても、古い何かを忘れていってしまうのだ。
つまりぼくの脳のキャパシティは相当に少ない。ごまんといるITエンジニアの脳のバケツのサイズに比べれば、ぼくのは公園の砂場に置き忘れられたくらいの幼児用の砂遊びバケツだ。あれ、かわいいよね。
そういうポンコツさを最近になってようやく受け入れた。
「ぼくはポンコツだ。ポンコツ中のポンコツだ。」
なんとも意識の低い言葉だけれど、実はぼくはそこまで悲観していない。むしろ「自分はなぜこんなにもできないのか?」と延々と悩んでいた時の方がよっぽど悲観していたし、苦しかった。その時に比べたら、この境地に達することができたのはなんと清々しいことか。もう「ポンコツのプロ」と名乗っても良いくらい。
「ポンコツのプロ」って、なんだか面白い日本語だね。広辞苑に載せられることはないと思うけど。
今年で40歳。ポンコツを受け入れるのが遅すぎた感もあるが、50歳になってから受け入れることを思ったらまだ若いぞと言って自分を納得させている。
妻と子供もいて、家計の大部分を自分の収入で支えている立場としては、これからできることも限られているのかもしれない。でもやっぱり「何者」かになってみたいな。そもそも「何者」って誰なんだよ?っていうのもいつも思ってる。
自分の目指す「何者」はどこかにいる誰かなんだろうか?
存在しない誰かだとしたら、それはどんな姿をしているんだい?
仕事に行ったり、noteを書いていれば何者かになれるんだろうか。
ぼくがなれる「何者」が誰かは全然想像がつかないけれど、せめて後ろ姿くらい見せてもらえたらうれしいんだけどな。
じゃあ、またね。
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