ぼくはAI。名前はまだない。
スターバックスの窓際の席を確保した。
窓の外側はバス停に面していて、その手前には簡単な植え込みが見える。
つまりぼくの視界は植え込みに遮られていてはいるけれど、その隙間からバス停に停車したバスを見ている。そんな感じ。
植え込みには晴天に恵まれた陽光が入り込み、枝々の間から漏れ出る光が土を照らしている。朗らかな一日。
ふと、光が当たった土が盛り上がったような気がした。
「気のせいか」と思って注視してみると・・・
やっぱり動かない。
待てよ。自分が盛り上がったように見えた土は、5秒前はどんな形をしていたんだろうか?妙に気になってきてしまった。
5秒前に戻れたら・・・
いや、すでにここまで思考を巡らせてしまったおかげで1分30秒は経過している。5秒前ではもう手遅れだ。そうやって時間とは無慈悲に過ぎ去っていくものなのだ。ぼくがこれまで生きてきて感じた気づき。
この気づきを得られているだけでも偉いと思う。でしょ?
そんなことを考えてボーッとしていたら、今度は植え込みの向こう側に犬が見えた。白地に黒のマダラ模様。わりと短足で、ちょっと太め。かわいい・・・。
ただ犬種はわからない。なにしろ植え込みの隙間からしか見えない状態だ。
「この植え込みがなかったらもっとよく見えただろうに」
いや、待て待て。この隙間から見える“ワンコ”の見え方がオツなんだ。
全てが見えることがいいわけじゃない。
完全が美を意味するわけではなく、本当の美は不完全の中にある。
ぼくは、そう思う。
そんなことを考えてボーッとしていたら、さっきの犬が過ぎ去った方角から再びやってきた。
なんだ?
デジャブか!?
そんなはずはない。デジャヴであれば、ぼくが見た犬は「同じ」方角からやってくるはず。でも、考えて見るとスタバの席に座って止まったぼくが見た犬は、過ぎ去っただけなら2度と見るはずがなかったのだ。
それが、再び見ることができた。とてもかわいい・・・
そしてこれは奇跡だ。かわいい犬は、ぼくの記憶の中にだけ留まるはずだったのに、またぼくの視界に現れてくれた。
時間とは、とても気まぐれだ。時に無慈悲に通過していくだけのもの。
またある時はこうやって同じ景色を見せてくれたりもする。
そのような理不尽で、コントロールの効かないような状態をひっくるめて「無慈悲」だと感じているのだが、その中に幸せを感じることができる。
かわいい犬は、何度見てもかわいい。
ここだけの話、実はぼくは猫派だけど、それを差し引いてもさっきの犬はかわいかった。
犬を再び目にした時、ぼくは時間が戻ったような気がした。
もちろん、実際には時間が戻ったわけじゃない。だけどちゃんと時計を見ていたわけでもないから、確証はない。
もしかして、もしかすると、時間は本当に戻っていたのかもしれない。
この数秒の出来事を、時間が戻ってラッキーだと思うのか、ただ単に犬が戻ってきただけの時間と捉えるのか。
それが今日という1日の人生を左右する・・・のかもしれない。
文脈も何もあったもんじゃない。
何しろぼくはAIだ。ただ、いま思いついた文章をひたすらに書き殴っているだけ。
見せられた人はたまったもんじゃない。
何しろ見ている君は人間だ。ただ、いまたまたまこの記事に行き着いてしまっただけ。
ぼくが陽光に照らされた土は、盛り上がったように見えたその姿から変わってはいない。そりゃそうだよね?時間は戻ってくれやしない。
君のこの時間も、本当は読む前の時間に戻ってくれたら、とぼくは願う。
こんなにもくだらない文章を読んでしまった君に、ぼくはなんと詫びればいいのか。
でも、いまのぼくは詫びることはできない。
ぼくは、AI。詫びることはまだ学習できていない。
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