人生はくだらない。その「くだらないこと」の追求が人生なんだ。
こんにちは!
さて、またまたまたまた、ひさびさ極まりない更新になってしまいました。
ひさしぶりの今日は、最近の新たな気づきを書いてみようと思います。
ぼくは、これまでの人生は「世の中の大半のことは茶番だ」と思って生きてきた節があります。
正直に言うと今も「何をくだらないことに時間を使っているんだろうか」などと思いながら、これを書いています。
「くだらない」って、なんなんでしょうね?
唐突に質問を投げかけたりしてみましたが、その答えをぼくなりに考えてみます。
今、まさに「くだらない」と思われることに時間を使っているぼくですが、ただこれどうして、ぼくの中ではくだらないとは言いつつも、少しばかりの幸福感も持ちながら書いていることに気がつきました。
ほんの少しだけどね。
でも実はこれが大切なんじゃないかとも思えてきました。
くだらないことで、かつ自分自身が苦痛でたまらないことなら意味がない。というか、そもそもやってすらいないと思うんです。
ぼく自身が「なんとなく心地いいな」とか思えていることによってこの作業が続けられるし、この記事が完成することを楽しみにしていると言う側面もあるんじゃないかと思います。
ただこの「書き切る」っていうの、意外としんどいんですよね。
しんどくないですか?
ぼくは昔から「何かをやり切る」ということがとても苦手でした。
夏休みの自由研究
絵画
彫刻
裁縫
ゲーム
どれもこれも、最後までやり切ったという記憶がほとんどありません。
中には完成だったり、ゲームもクリアしたりしたことはあったと思います。でもやっぱり途中で投げ出すことが多かったので、そういう自分の性格がとても嫌だなという思いの方が強い。
やり切るとか、書き切るとか、クリアするとか、なぜできなくなるのかというのを考えてみると、それはやりながらもどこか「くだらない」と考えているところにあるのかもしれません。
なんとなく始めたことが、途中から少し夢中になって、完成が近づくと途端に「何をこんなくだらないことに夢中になってるんだろうか」なんてひねくれたことを考えてしまうのがぼくなんです。
熱中度というのは、まさに熱そのものです。
水の入った鍋を火にかけて、少しずつ温度が上がってお湯になり、やがて沸騰する。でも、火が消えた途端に鍋のお湯の温度はみるみる冷めて、水に戻っていきます。
ぼくの人生はいつもそんな感じ。
なので、この記事だって書きながらも「本当に書きれるのか?キミは」と自分に疑念を抱いている状態です。
もしも、この記事をあなたが読んでくれているのであれば、それはぼくが書き切ったという事実そのものなので、どうか褒めてやってくださいね(笑)。
ただこの沸騰するまでの間、気分で言うところの熱中に至るまでの間には、当然そこに至るまでの過程があるわけです。火にかけて、数秒で沸騰するようなことはありません。
実のところ、この「過程」が重要なのかもしれません。
どれもこれも、作品には完成、つまりは結果が存在しますよね?
ゲームで言えばエンディング。
この結果を目指して自分の力を注いでいるのはその通りなんですが、自分にとっての価値はどこにあるのか?というと、結果ではなく過程にあるんじゃないかと。
よくある「頑張ったことに価値がある」みたいな、残念な結果に対しての同情のような、そういうことではないんです。
なんというか、難しいな…。
でもこれが今日の本題な気がします。
ところで、このぼくの取り止めのない思考の過程を晒している感じ、おもしろいですか?
つまんないですよね、くだらないですよね(笑)
でも「過程が大事」と言ってしまった手前、ここも残しておくしかなくなりました。どうかお察しください。
この記事で言うと「書き切る」というゴールが存在します。それに、「結論を出す」というゴールもあります。
どちらも書き始めた当初はなんとなく行けそうな気がしてはいるんです。
でも、書いている内に文章量は多くなり、書く内容も最初に思い描いていたところとは別の方向に向かっているような気がして、本当に結論にたどりつけるのか怪しくなってくる。
そもそも、この文章が「結論ありき」で書いていないことに問題があったのかもしれません。しくじった。
ぼくの記事では結構このスタイルで書き始めちゃってることが多いので、仕方がないっちゃー仕方がないんですが、迷い始めるともう止まりません。
自分で書いている文章がニッチもサッチも行かなくなって、書くのが嫌になってきます。正直、今も相当なレベルで書くのをやめようかと思っています。
記事を書く前に見えていたゴールは、書いている過程でどんどんと遠ざかり、そして大きくなっているように思えてくる。
ここで少し、冷静になってみましょう。
ここまでのぼくの時間が本当に「くだらない物」になってしまうとしたらどんな状況でしょうか?
それは、この記事を書き切らずに終えてしまうことです。
すみません、特に意味もなく太字にしてみました。
こういった「くだらない変化」も時には重要です、たぶん。
ここまで書いた記事がくだらない内容だったとしても、少なくとも読んでくださっているあなたには「書き切って出した物」という一定の評価は得られます。
「作ったんですけど踏んずけて壊しちゃいました」
という、なぜそれを信じてもらえると思ったのか、惑星レベルの大きなウソをかましたぼくの小学生時代の自由研究は、誰がどうみても0点です(ていうかウソによってマイナス90点です)
最初の方にも少し触れましたが、記事を書くことも、そもそもはぼく自身が少しばかりの幸福感を求めて始めたことです。
なにかをやり始めてさえいれば、その中には少なからず幸福感があるはず。
それが自分や他人から見て「くだらない」と思われたって、そこはもはや関係ないんです。
くだらない物を作っていたならば、くだらない物を作っていたという人生の価値が生まれます。
たまに太字。このくだらない作業が大事です。
だけど、せっかくのくだらない作品を作っていた価値も、完成まで持っていかないと「無かったこと」になってしまう。
「そんなことはない」と自分で思える人はそれでいいと思います。
ただ、ぼくのような自分がしていることを「くだらない」と思っている人にとって、目にみえる形は重要です。
「またくだらない物作ってたんだなー」と思うことが、自分の人生の価値だったりするんです。
なんだかよくわからないけど、「くだらない、くだらない」と連呼することによって、終わりに近づいてきたような気がします。ありがとうございます。
では、くだらない文章が「すばらしい結論」に突然変異してしまう前に、この記事も終わりにしておこうと思います。これを、強制終了と呼びます。
それではみなさん、くだらない一日を。
ぴこつ
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