人生は自分モデルの大いなる人体実験だよね
人生の中で、挑戦と呼べることをいったいいくつしてきただろうか?
基本的にヘタレであるぼくは、新しいことに取り組むのことには二の足を踏むことが多い。
それとは別で「気分屋」という側面もあって、自分自身がノッている時はさほど労せずやり始めてしまったり、かと思えば大したことでもないのに怖気付いてなかなか一歩を踏み出せなかったりもする。
今、書いている日記なんかも、やっぱり気分によって書きたかったり書きたくなかったり。でも書き出してみるとなんということもなくどーしよーまない文章をただひたすらに書き続けてしまうという状態になったりもする。
みんな気分によって挑戦をしたりしなかったりというのはあると思うんだけど、きっとぼくはその振れ幅が大きいんだろう。
また、これに加えて「ひねくれ者」属性も付いているからそれがさらに自分を厄介な存在にしている。自分自身でもなんともコントロールのしづらい人間だと、いつも悩まされている。
ただ、こと身近な人の身におこるトラブルに対しては急に冷静になることが多くて、なんでかな?と考えてみると一つの答えにたどり着いた。
これは「冷たい」と言われてしまっても仕方ないことだが、ぼくは誰かに訪れる出来事を、他人事として捉えてしまうところがある。そしてそれをきっと「クリアできる課題」だとまず認識しているのだと思う。
でも、そこにはまだなんの根拠もない。
ただ単に「なんとかなる」と思い始めるところがトラブルに対抗していく上では必要だ。この「なんとかなる」から連想する「じゃあ何をすればいい?」を考えていくと、一つ一つ問題をクリアしていける気がするのだ。
これまた「他人ごとか!」と叱られてしまいそうだけど、自分にとってはいわばゲームのような感覚に近いんだと思っている。
翻って自分自身のこと。
自分に起こる問題や、今からやろうとしている挑戦の類いには、ぼくはめっぽう弱い。なぜこんなにも弱いのかと言われれば、そう。「自分ごと」だからだ。
自分の身に起きたことに対してはゲームだと考えることが難しい。あらゆるリスクや「悪い結果」ばかりを追いかけてしまって、冷静に物事を考えることができなくなってしまうのだ。
ね?めちゃくちゃめんどくさいヤツでしょ?
でも、最近はそれを他人ごとと同じようにゲームだと思う努力をしている。
これからやろうとしていることは挑戦とかチャレンジではなく単なるゲームだと。
ゲームであればきっと攻略できる。たとえ攻略できなかったとしても、自分が死ぬわけじゃない。自分が演じているゲーム内のキャラがゲームオーバーになるだけ。またやり直せばいい。
そう考えることによって「失敗」を前提とした挑戦ができるんじゃないかという算段だ。
どんな挑戦であっても、大小関係なくこの思想を持って挑んでみたい。
たとえば、ぼくはSNSが苦手だ。何が苦手か?と言われたら自分でもよくわからないんだけど…とにかくSNS上で人と関わることが難しい。
ぼく自身は人見知りなので、オフラインで誰かと会うこともまぁ苦手といえば苦手なんだけど、まだオフラインの方が相手の反応や、当たり前だけど実体が見て取れるので「安心感」がある。
それに比べてオンラインでは、相手の顔が見えないことに加えて文字でのやりとりがメイン。文字だと自分が発したことが誤解されるのではないかといった変な心配までしてしまうのだ。
ぼくが毎日、日記をツラツラと書き連ねているのも、自分が思ったこと、今思いついたことを誰に構わず制限なく書けるから。
これがもしも誰かとの対話に使う文章であったなら、たぶんぼくは「送信ボタン」を押すまでに50回くらいためらっているだろう。
そのくらいに小心者なのだ。
ちなみに身長は180cmある。
とにかくそう言った、SNS上のぼくのささいな挑戦もゲームと思えば少しは思い切って送信ボタンを押せるかもしれない。
他にも、ぼくがこれからの人生で挑戦する場面はいくつもあるだろう。それこそ一世一代の大勝負なんてことも出てくるかもしれない。
そんな時、自分自身が実験モデルとなってゲームがごとくトライアンドエラーを繰り返せるくらいに軽いノリのヤツになっていたいな。
というわけで、TwitterとかのSNSでぼくを見かけた方は優しくお声がけをしていただけるとうれしいな。
そしてぼくがメッセージを送信することをためらっている姿をご想像しながら、温かく接してくださる方、お待ちしていますよー。
じゃあ、またね。
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