そう。そこに居るだけで価値がある。
むかし飼ってた猫がいて、チンチラの姿をした雑種のカワイイ猫だったんだけど、ぼくが中学生くらいだったかな。冬が近づいて寒くなると、TVゲームをやっていたら夢中になって丸くなったぼくの肩によく乗っていた。
あの子は人が抱っこしようと思うと嫌がってすぐに飛び降りちゃうくせに、自分からは図々しく膝や肩に乗って来ていたんだったな。
カワイかったから許すけど。
ぼくらは、生きている間、誰かの役に立つために働いたり、誰かに価値を与えるために活動したりと忙しい。たとえ自分が嫌だと思う仕事についていたとしても、「仕事がある」ということはその仕事で助かる人が必ずいるわけだ。
少なくとも、仕事をぼくやあなたに頼んだ人の役には立っている。
それがたとえどんなに嫌な上司でも、失敗ばかりしている同僚の尻拭いであっても、その人のお願いを聞いてあげた時点で、その人の役には立っている。
ただ「ありがとう」と言われるとは限らない。実際には頼まれごとの半分くらいしかありがとうと言われることはないかもしれないね。
簡単なお願い事であれば「当たり前」で済まされてしまうかもしれないし、嫌な人から頼まれた事はそもそもその仕事に価値がなかったことかもしれない…とんでもないヤツだなそりゃ。
でもやっぱり、どれだけしょうもなくて、どれだけ役に立たない仕事でも、頼んだ人のお願いは聞いてあげたのだからそれだけで十分に価値のあることをしたんだと思う。
もしかしたら、それをやったことを誰か他の人が見てくれていて評価されることだってなきにしもあらず。
よく、「人はどこかで自分ががんばっているところを見てくれている」ということを聞く気がするけど、それって本当なのかな。
ぼくはたしかにTwitterなんかを見ていて「みんながんばってるんだな…」て半ば疎ましくも見てしまているけど、それって要するに誰かのがんばりを自分自身が見ているんだよな。
だからきっと「どこかの誰かが見てくれている」というのはウソじゃなくて、インターネット上のどこかで発信さえしていれば褒められることはなかったにしても、誰かはきっと評価してくれている。
ぼくは「誰かのために何かをしよう」とか、「困っている人を助けよう」とかそんな大それたことを言えるような力は備えてはいない。
身近な誰かを守る力でさえもあるのかないのか。「守る」と言ってもなんの力も持っていなければ説得力にも欠けるし、実際に守ることなんて不可能だ。
でも、ぼくがそこにいることで誰かのためになることはもしかしたらあるかもしれない。
大してなんの力がなかっとしても、
「話を聞く」とか
「ほめる」とか
「応援する」とか
そんなささいなことならきっとできる。
それが誰かのためになるかどうかはいささか不安ではあるけれど、それこそ自分ではわからない価値を提供しているんじゃないかな。
寒くなった夜にただゲームをしていたぼくの肩に乗ってきたあの猫のように、ぼくがいることで何かの役に立つことがあるかもしれない。何かの助けになることがあるかもしれない。
きっとあの時、ウチの猫には価値を提供できていたし、なんなら振り落とされてもまた戻ってきていた。
猫にとってぼくはいなくてはならない存在だったんだ。きっと。
猫も小さい頃はまだかわいいだけでよかったんだけど、大きくなるとやっぱり重くってね。
でもやっぱり可愛かったな。
ぼくを必要としてくれているってこともあったのかもしれない。
可愛かったな。
自分はちっぽけだっていつも考えがちだけど、そこに居て、できれば誰かの役に立てるなにかをやっていたら、自分もちょっとだけいい人間になるのかもね。
いつもありがとう。
じゃあ、またね。
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