『累犯障害者』『響きと怒り』
まず私は山本譲司の「獄窓記」を読もうとしたのだが図書館になく、代わりに読んだ。なぜ「獄窓記」を読もうかと思ったかと言うと、自分の生活がまるで刑務所にいるかのようなものだからだ。「死の家の記録」「イワン・デニーソヴィチの一日」「俘虜記」とかを読むのもそういう事だからだ。ぬくぬくと明るく楽しい人生を送ってる人は読まなくていい。
「アブラムシの浮いた実のないシチュー」いいよね。
著者は恐らく政治闘争で負けたから投獄されたのだろうが、そしてむしろそっちの方が興味をそそるわけだけど、まぁ当人は語れないだろう。ともかくこうした獄中体験というのは世間の暇つぶしとして日々溢れかえっているわけだし、それはレイプ犯罪だけ傍聴しに行く輩と同じくただの下世話趣味、悪ふざけでしかなく不愉快である。政治闘争に負け刑務所に行くのと、レイプして刑務所に行くのとではその様相は大いに異なる。ドストエフスキーは金持ちインテリだったからこそ、ひたすら聖書を読んでいたように。
ただ本書は少し毛色が異なる。
それは刑務所にいる障害者が中心だ。だから、そしてそれゆえに、人が言いたくない事、聞きたくないことを書くことになる。不愉快になるだろうし反感もあるだろう。しかし何故だか分からないが、そうしたことばかり考えてしまうのだ。
少し脱線するのだが、本書は読みやすい。
さすがにインテリである。早稲田がインテリかどうかは知らないが。そして、
中々に読みづらい漢字を多用するのも特徴だ。「いにょう」「いすくまる」である。漢字警察には気を付けよと聖書にも書いてある。
刑務所には3割以上の囚人が何らかの障害を持つというデータである。現在でも法務省公式にて公開されている。そして再犯率も高くその点を以下のサブタイトル、人物を通して細かく調べている。
既知の事件もあれば知らないものもあるだろう。総じて出てくるセリフはこれである。
「生きててなーんも良い事なかった」
障害者を利用するヤクザ、障害者を利用する障害者、手話のおかしさ、そんなことが書かれている。興味のある方はご一読をすすめる。私が知らなかったのは、レッサーパンダ男が生徒会長にさせられたのはいじめだったこと、その父親も現在は手帳持ちだというはなしだ。
また報道なども、センセーショナルな話題として出た割に続報が出ないのは、犯人が障害者だというのも中々気づけないことでもあるだろう。
どういうわけか分からないが、不思議な偶然というのが続く。
私も特に介護に興味があったわけではないし、まったくの門外漢だからむしろ他の連中と同様、関わらない方が良い。残酷な話だが、結局そういうことだ。私が知ったのはとある配信である。
その人物が語る介護や福祉、障害に関する実態というのは令和も数年たった今でも、いや今だからこそ過酷なものだという。精神的ストレス、重労働、深夜に及ぶ長時間勤務、そしてたまーに取り上げられる低賃金だ。
例えば痴呆老人などは
「帰りたい」
といってむずかるのだという。
帰るところのない人は一体どこに帰るのか分からないし、帰るところがある人は帰ったところでその息子夫婦などはその費用を捻出するために働いているのでいないにも関わらずだ。食事を済ませトイレに行かせオムツを変えて、本来ならそこで「やれやれ」ということだがそうではない。クソは漏らす、何かケンカが始まる、等々正に地獄だというのだ。
また知的障害に関する話も、というか用語ですらかなり細かく定義化され分類化されていて知らない事ばかりだ。
ASD一つにしても、孤立型、受動型、積極奇異型、尊大型などと言った具合だ。
例えば英語だと、mulfunction、などや、disorder、という言葉を多用するのは薄っすら知ってはいたが、そしてこうした用語が一体何になっているのかさっぱり分からないのは、もうなんというか、誰も語らないタブー化しつつあると思ってはいる。
私は老人らが前後不覚になって起こってイライラするのが分かる気がする。
病院のリノリウムで塗られた無機質な部屋、出される食事はプラスチックの容器、そして、、、こうしたものは彼らの大半の人生では触れもしなかったものだろう。キレイで清潔で何もかもが機能的に整ったその環境というのは、正直なところ、私なら長居はしたくないのがホンネだからだ。
そしてこうした偶然が呼ぶのか、私がふと手に取ったのがフォークナー「響きと怒り」である。
アメリカ人ですら意味が分からないと匙を投げるこのフォークナーだが、以前「アブサロムアブサロム」を読み興味を持ったのだ。そしてこの「響きと怒り」でその周りの状況をジッと見ているのは、
この主人公はどう考えても知的障碍者である。まだ序盤しか読めてないし、大体フォークナー自体、難解な作家だと知ってるのでその辺は読解がダメかもしれない。字面だけを追ってれば淡々と描写が続くだけだが、もし映像化すると主人公が叫び泣きわめく場面が延々と続くということを、多分想像しないといけない。
フォークナーは西側でも東側でもない、南部人を書く人である。そして彼らは南北戦争に負けた人である。その辺は、まだまぁ分かることもある。しかしそこから更に深く深く掘り進んだ先に、1人の知的障碍者がその目と耳と体で感じる世界というのは、私にとってやや驚きだったし、なんというか、人間が持つ固有のネイチャー、避けられないものとしてある差別というのを描いている気がする。
先の、山本譲二も書いていたが反省とは何だろうというのは私が日々考えることである。ついでに書くと、私がその名を「省三」としているのは論語からの引用で、
三度省みる、という意味である。
今日を振り返って私は何かひどいことを言わなかっただろうか、しなかっただろうかと自分に問うているのだ。この首をつって死んだ友人の名は私にとって忘れられない名であり突き付けられた鋭い刃なのだ。
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