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「人に嫌われたくない」と言われた話。

ある日仕事中、仲の良いマダムと話していた。そこに新人さんが業務以外の分からない事を聞きに来る。それも毎日毎日。
長い時は40分ぐらい教えている姿を隣で見ている。ふと嫌味でなくさらりと聞いたことがある。

「いつも来る方…業務以外の事ですし、断らないと毎日聞きに来ちゃいますよ…さすがにきつくないですか?」

っと。するとこう返事が来た。

「嫌だけど…嫌われたくないからね…」

この言葉の重み。忘れていた何かを思い出しかの気分になった。
私は振り切ってしまった人間なので、人から嫌われても何言われても別に気にしない。何かしらに言ってくる人には「オマエモナー」ぐらいの感覚で鏡で言ってるぐらいにしか思ってない。

これに至るまでは時間もかかった。たまに自分がズレてるのか相手がズレてるのか分からなくなりその時は友達に聞くことはある。

話は逸れたが、冒頭にも述べた通り「嫌だけど…嫌われたくないから…」この感情は全員では無いが通る道の1つだと思っている。
それは幼少期、大人になってから時期は明確ではないが触れる人は多いと見ている。

各有私もその1人だった。そうしないと取り残され、一人ぼっちになるっと。疎外感というのか輪に入れない恐怖というのか、自分を押し殺してでも従わないといけないドロッとした感情が湧き上がるあの感覚。
とはいえ、嫌われたくないという感情のパロメーターが勝ち従う負の連鎖。

確かにあった。とはいえ、歳を重ねるごとにその考えがなくなった。もちろん人としてダメな事をして嫌われるのは自業自得だが、そう出ない場合は相性もあるし嫉妬や妬みもあるのでどうでもいいっと。間違ってたら言ってくれる人もちゃんといるから尚更な部分はある。

何故今回この話題を取り上げたかというと、その「嫌われたくない」という感情は年齢に関わらず染み付いているという事だ。

10代や20代前半の多感な時期で終わるものではなく、何歳になってもその人の中に深く深く根付いている。断ち切るには自分自身が視点を変えないと無理なようにも見える。その都度彼等・彼女等は自分を押し殺して過ごしている。

しかしこれは逆手に取るととても保守的という事もわかる。「嫌われたくないから嫌でもやる」=「そうすれば嫌われないし何も言われない」=自分を守る盾になる。
この選択を取らなくちゃ行けない場面ももちろんある。生きてればそれが手っ取り早く近道になる事だって多々ある。否定はしないし、そうやって生きてる人はごまんといる。

ただこれがもし「自然な行動」だとしたらどうだろうか?
友達、家族、恋人がもし困ってたり、誕生日のような祝い事だったりしたら自然に手助けや祝ったり喜んだりしてるのではないだろうか。
そこに「嫌だけど嫌われたくないから手伝う、祝う、喜ぶ」という事はしないだろう。

本当に大切だったり、信頼関係があれば体が脳が勝手に自然に動く。何かをしたいという行動に深い意味はなくただただ自然にしている。相手・自分が助けられてる時、喜びを共に分かちあってる時、笑ってる時、そんな邪な考えはそこまでないと思っている。(ごく稀に立場によっては社交辞令の時もあるが)

振り切ってしまったからか、人に嫌われるのが怖いと言う感情を久しぶりに聞いて立ち止まった。心の奥深くに眠っていた扉をこじ開けた気分だった。しかもそれが大の大人からだったから尚更だったのかもしれない。
心の形や大きさ、それが悪い事とは言わない。ただ人は思った以上に何かにずっとずっと囚われているんだと改めて思えた。

1つとして同じ物がない思考。
その片鱗に触れた時、核に近づいた感じがとても楽しい。

では、またあした。

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