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形から入って、心に至る


今日は酒場に欠かせない音楽のお話を。





酒場を営むうえで日々お酒を注ぐことを生業としておりますので、香りや味わいの印象を言語化することや造り手の背景を添えたりと、一杯のお酒に対しての付加価値を高めることを心掛けています。

そして同じくらいに、お酒を楽しむ場としての「時間の切り売り」を大切にしたいと思っています。



例えば夜が深まっていくにつれて徐々に照明を絞っていく「調光」であったり、出来るだけ多くの方にとって快適に過ごしていただけるように「空調」に気を配ったり。
ごく当たり前のことなのですが、蔑ろにしてしまえば居心地の悪さへと繋がってしまいます。
いつでも完璧にこなせるわけではありませんが、それらの要素が上手くはまった時のお客様の笑顔を見ていると、こちらまで幸せな気持ちになります。

そういったお客様主体の要素と共存しつつも店主の趣味趣向が顕著に表れるものといえば、それはやはり「選曲」でしょうか。
静かな時はボリュームは控えめにしつつも、会話の切れ目に耳に入ってくるその音色が美しいものであるように。
逆に賑わっている時には少しボリュームをあげて、よりお客様同士の会話が弾むようにとアップテンポなものを選んでみたりと。

会話のお邪魔にならないように、だけれどつい飲み進んでしまう憎い演出を担うのに音楽ほど適したものはありませんし、こちらが気持ちよく働くためにもやはり音楽は欠かせないものです。


特別音楽に造詣が深いわけでもなければ、無限に引き出しがあるほど広い分野を嗜んでいるわけでもないのですが、心地よくお酒を楽しんでいただくために手持ちのカードでなんとかやりくりするのもまた酒場を営む醍醐味のひとつと言えるでしょう。



酒場と切っても切り離せない関係である音楽について改めて考えた時、ふと学生時代に出会った一枚のアルバムの事を思い出したのです。






飲食に携わる仕事に就こうと進路を決めたのはいいものの、実際に専門学校が始まるまで何から手をつけたらいいかもわからず時間を持て余していました。
気晴らしに友人から借りた小説に音楽についての描写が沢山あって、読み終える頃にはなんとなくジャズに興味が湧いていました。

思い立ったが吉日ではありませんが、いろんな音楽に触れたいと思って訪れたCDショップで、ジャケットに見覚えのある一枚のアルバムに目が留まったのです。


「Waltz for Debby」


ジャズピアニストであるビル エヴァンスが1961年にヴィレッジ ヴァンガードで行ったライブを収録したアルバムで、ジャズを語るうえで避けては通れない名盤中の名盤です。


生まれて初めて聴くジャズはそれはそれは衝撃的なもので、なんの知識もない当時の私は雷にでもうたれたような想いでした。
ピアノ、ドラム、ベースが紡ぎ出す甘美な旋律もさることながら、奏者や観客の細かい息づかいやグラスの触れ合う音など、あたかも目の前で起きている錯覚さえ感じさせるような不思議な体験をしたのです。

「いつか自分で店を持つことができたなら、一番最初にこのアルバムをかけよう。」


当時は料理人を志していましたし、何か明確なビジョンがあったわけでは全く無いのですが、それでもこの出会いはきっと特別なものであるに違いないと確信したのです。
こうして初めて購入したジャズアルバムが、極めて漠然としたものであるにせよ人生の細やかな指標となりました。




時は流れて、念願であった自身の店を構えることになります。

フランスから帰国したくらいからでしょうか、数年後の自分を見据えて様々なイメージを膨らませるようになりました。
当時の私は必ずしも独立することにこだわっていたわけではなかったのですが、もしそういうご縁に恵まれたなら臆せず挑戦してみたいという気持ちも捨てきれず、時間を見つけては妄想を繰り返していたように思います。

実現したい形は変わっても、物語が始まる最初の一枚は「Waltz for Debby」でなくてはならないという想いは変わらずに持っていました。
一途というか頑固というか、当時と比べて倍に歳を重ねても人ってあまり変わらないものなんですね。


音響機器は悩んだ末にMarantzのM-CR612と、スピーカーはDALIのOBERON 5に決めました。量販店で半日かけて試聴を重ねて、予算に合う中で最もしっくりときたのがこの組み合わせ。
お気づきかも知れませんが、延々に件のアルバムを繋げて試聴を繰り返すわけですからお店の方はさぞ迷惑に思われたことでしょう。

さて、音響機器を選んだは良いものの実際に設置してみないことには、本当にお店と相性がいいのかは分かりません。
専門的な知識など持ち合わせていませんが、壁や天井の材質で音の反響は大きく影響を受けるでしょうし、スピーカーを設置する場所を決めるのもとても大切なことです。

業者の方に無理を言ってふたつのスピーカーを少し離して設置したのですが、うち一つは壁付けのブレイカーに半分隠れてしまうかたちに。
音響に造詣が深い方ならまずそんな場所に設置することはないでしょう。


これはこれで悪くないんじゃないかと、根拠のない自信とともにそう言い聞かせました。




翌日からの営業を控えた深夜、静まり返った店内でそっと再生ボタンを押したあの夜のことをきっと忘れることはないでしょう。
沢山の方に支えられようやくスタート地点に立つことができ、その安堵からでしょうか、張り詰めた気持ちがあたたかい涙に変わったような気がしました。

自分を信じて続けてきて良かったなと。
あのアルバムを変わらずに愛し続けて本当に良かったなと。





それから月日が経って、スピーカーは随分と小慣れてきて少しずつお店に馴染んできました。
どうなることかと思っていたスピーカーの設置場所も案外悪くないもので、お店の個性としてポジティブに受け止められるように思っています。



冒頭にもお書きしましたが、飲食店における選曲は店主の趣味趣向が色濃く反映されています。

あくまで会話の潤滑油として美味しいお酒があって、その時間を心地よく過ごしていただくためのひとつの要素が音楽なわけですが、たまには静かな時間帯にでも音楽に耳を傾けてみるのも良いんじゃないでしょうか。

きっとお店の数だけ、店主と音楽との小さな物語があるはずですよ。



形から入ってみるのも悪くない。継続することで少しずつ様になっていき、ひいては心に至っていくものなんだとそう信じています。



一本のワインとの出会いが、その後の人生を大きく変えてしまうかも知れない。
そんなワインに人生を狂わされ、現在進行形でワインに狂わされ続けている小さなワインスタンドの店主の話。

日々思うあれこれや是非ともお伝えしたいワインに纏わるお話を、このnoteにて書き綴らせていただきたいと思っております。

乱筆乱文ではございますが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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