豊かさって、なんだろう
世界で一番のお酒は仕事終わりにいただく最初の一杯である。
ほとんど断言しても構わないんだけれど、普段からお酒を飲む習慣のある方にはきっと共感していただけると思う。
お酒が飲めない方にとっても至福の一杯はあると思うし、最初の一杯は何にしようかと悩む時間は幸せでしかない。
お酒の好みは人それぞれだと思うけれど、多くの方は「とりあえずビール」から始まると思う。
景気付けに一杯やるには何はともあれビールでしょう、という人は意外にもフランス人にも多くて、日本ではあまり馴染みのないビールカクテルなんてのも多数存在する。
今回はその中でも特に思い入れのある、ピコンというお酒について書かせていただこうと思う。
ピコンとはオレンジの果皮、ゲンチアナ (リンドウの根)、キナ (アカネ科の薬用樹木) を主要成分としたフランス生まれのリキュール。
フランス陸軍の軍人としてアルジェリアに派遣されたガエタン ピコンという人物が現地の薬草に興味を持ち、退役後の1837年に製造したのが始まりなのだそう。
甘やかなオレンジの香りと爽やかなハーブの苦味が特徴的で、フランスではソーダやビールで割って食前酒として長く愛飲されてきた背景がある。
ワインの本質を学びたくて2015年9月から2016年12月までフランスに留学していた僕は、本当に沢山の人とお酒との出会いに恵まれた。
ワイン生産者のもとで住み込みで働かせていただくことで、畑で何が起こっていて、どのようにしてワインが造り出されるのかをじっくりと学ばせていただいたのだ。
猫の手でも借りたいほど忙しい春先以降は研修先には困らないけれど、年末年始から冬の終わりくらいまではそれほど仕事がないので、お世辞にも裕福とはいえない彼らも、閑散期まで研修生の面倒を見られるほどの経済的な余裕はない。
雀の涙ほどの資金しか持ち合わせていない僕にとってこの時期をどう乗り越えるかが問題で、なかなか働く先が見つけられずに悶々とした日々を過ごしていた。
友人からの提案でwwoofingという、継続可能なオーガニックの農業を実践する生産者のもとで研修できる制度を見つけて、藁にも縋る想いでひとつの農家にコンタクトをとってみた。
休日にはワイン生産者を訪問するのも悪くないなと思い、アルザス地方の北部で家族経営で酪農や農業、林業を営むエリックという方のもとで働くことが決まって、ようやく長いトンネルから抜け出す糸口を見つけたのだ。
もっとも、ワインの産地から何十キロも離れた辺境に農場はあるのだけれど。
待ち合わせの時間に遅れること2時間。
それについては特に詫びることもなくぶっきらぼうに振る舞うエリックに、これからの彼との共同生活に一抹の不安を感じつつ、まずは研修を受け入れてくれたことへの感謝の気持ちを述べた。
『とりあえず飲みに行くぞ。』
「寒いしカフェにでも行きますか?」
『何言ってるんだ、酒に決まってるだろう。まさか下戸じゃないだろうな?』
えっと、車で来ていますよね。
いや違う、これがフランスなのだ。
丁寧に言葉を選んだとしても、お世辞にもお洒落とはいえない田舎町の寂れたバーのカウンターに並んで、METEORという地元のビールで景気付けに一杯。ひどく淡白な味わいで、なんというか味気ない。
『まったくもってパッとしない味わいだろう。ピコンでも足さなきゃ飲めたもんじゃない。』
そういって空になったグラスをマスターに渡して、今度はたっぷりとピコンが入ったMETEORをお代わりする。彼に倣って負けじと僕もそれに便乗する。
先ほどの淡白なビールが見違えるほどに深みのある味わいに。
爽やかなオレンジの香りと、カラメルを思わせるビターな風味がとても美味しい。
「悪くないね、まったくもって悪くない。」
『そうか、お前とは上手くやれそうだ。』
口数は少ないけれど根は優しいエリックと、寂れたバーのカウンターでひっそりと盃を交わした。
氷点下の寒空の下、見捨てられないようにと懸命に働いた。
薪割りから牛の乳搾りに家畜の世話、自家菜園の野菜の作り方も丁寧に教えてもらって、我がことながら想像以上にワイルドな生活を送っていた。
どうしてそんなにフランス語が下手なのだと子供達に呆れられても、なんとか彼らと仲良くなって語学を身につけるのだと、仕事以外の時間はひたすらに語学に励んだ。
タイミングよく友人から車を譲り受けたこともあって、ほとんどペーパードライバーだった僕の運転の練習にもエリックは根気よく付き合ってくれた。
鬼軍曹よろしくとても厳しかったけれど、甲斐あって逆ハンドル逆車線でマニュアルでの運転も随分とサマになってきたと思う。
そんな我々の日課といえば、へとへとになるまで働いた後のピコンのビール割り。
これを飲まないことにはその日の労働を終えたという実感が湧かないのである。
彼の暮らす村に酒場はなかったので、先述のバーまでの片道20kmの道のりも、彼の指示がなくとも迷わず迎えるくらいには土地勘もついてきた。
駆けつけ5杯のピコンビールで程よく酔いが回っても、帰り道の運転も僕の役目だった。
えっと、車で来ていますよね?
いや違う、これがフランスなのだ。
『こんなど田舎に取り締まりに来るほど、警察も暇じゃないよ。硬いこと言うな。』
郷に入りては郷に従えを、身をもって体感した日々だった。
あっという間にひと月が経ち、幸運にも春先からお世話になる生産者とのご縁にも恵まれて、いよいよエリックに別れを告げることに。
彼のお陰で心身ともに少しだけ逞しくなった気がする。
選別代わりに彼から貰ったMETEORを一ケースとピコン一本をトランクに積んで、彼と固い握手を交わした。
『初めて出会った時と比べると、随分男らしい手になったな。
ロクにフランス語も喋れないから不安しかなかったけれど、まぁ酒が飲める奴でよかったよ。いつかまた乾杯しよう、達者でな。』
少しだけ涙目になりながら、僕はアルザスの片田舎を後にした。
彼のお陰で車の運転にも随分と慣れたし、フランス人と寝食を共にすることで日常的な会話も随分板についてきた。
そのお陰で、それ以降のフランス生活は随分と充実した日々となったものだ。
エリックには本当に感謝しかなかった。
ピコンのビール割りはもしかしたら感動するような美味しさではないかも知れないけれど、それでも僕にとっては最高のお酒だ。
たとえ経済的に裕福じゃなくても、慌ただしい日々を送っていたとしても、それでも彼らは人生を豊かに暮らしている。
一生懸命働いた後のお酒というのは本当に、本当に美味しいのだ。
幸せなことに今はお客様にその一杯を注ぐためにカウンターに立ち続けている。
願わくば人生の豊かさに少しでも関わることが出来ているのなら、注ぎ手としてこんなに幸せなことはない。
そんな思い出のピコンのビール割り、たまに気分を変えたくなった時には是非とも試していただきたい。
一本のワインとの出会いが、その後の人生を大きく変えてしまうかも知れない。
そんなワインに人生を狂わされ、現在進行形でワインに狂わされ続けている小さなワインスタンドの店主の話。
日々思うあれこれや是非ともお伝えしたいワインに纏わるお話を、このnoteにて書き綴らせていただきたいと思っております。
乱筆乱文ではございますが、最後までお読みいただきありがとうございました。