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パスティスのすゝめ



パスティスを飲むと遠い日のフランスでの生活を思い出す。

まだ暫くは行けそうにはないのだけれど、"そろそろフランスに行ってみませんか?"という自分の内なる声が、此の所のパスティスの自己消費量の多さを物語っているのかも知れない。



パスティスというお酒をご存知だろうか?  

主に南フランスで製造されている、アニス (甘い香りの香辛料) やリコリス (甘草) の風味をつけたリキュールで、少し癖のある味わいと甘みがあることから好みは分かれるものの、フランスでは食前酒として長く愛飲されてきた背景がある。

もともとは琥珀色をしているが加水することでエタノール濃度が低下し、パスティスに含まれる精油成分(テルペン)が水に溶けきれずに出てきてしまい、その結果液体が白濁するという目でも楽しませてくれるお酒なのだ。


フランスでの生活を始めて数日が経った頃だろうか。

何気なく入った雰囲気のいいカフェで、カウンターに立つ紳士が不思議な色をしたお酒を随分と美味そうに嗜んでおられるのが目に留まった。

恐る恐る何を飲まれているのか尋ねてみると、これはパスティスというお酒だという。
飲んでみたいかと訊かれたので正直に頷くと、

『 この若者に私と同じものを出してやってくれ。勘定はこちらにつけてくれていい。』

と、ギャルソンに注げる。
きっとここの常連さんなんだろう、それにしてもスマートな振る舞いだな。

いろいろと話し掛けてくれたのは嬉しかったけれど、残念ながら当時の私の語学力では殆ど理解することができなかった。
彼はごく控えめに溜息をつきながら、どのくらい滞在するつもりなんだねと尋ねてきた。

「少なくとも一年はいます。それまでに必ずフランス語を身につけてみせますから。」

きちんと伝えられたのかは分からない。
ただ、偽りのない自分の気持ちを正直に伝えたつもりだ。当時は実力が全く伴っていなかったのが情けなかったけれど。

紳士は少し間を空けてから、

『 恐らくこの先、挫けそうになったり弱音を吐いてしまうこともあるだろうが、そんな時はこの酒を飲めばいい。少しだけ心が軽くなるから。 』

そういって勘定を済ませてカフェを去っていった。ご馳走さま、美味しくいただきました。


パスティスはもともとはアブサンという、1930年代に製造禁止になったお酒の代替品だ。 

アブサンに含まれるニガヨモギの主成分であるツジョンが強い幻覚作用を引き起こして、多くの中毒者が出たために"悪魔の酒"とまで呼ばれたらしい。
(* 1981年に世界保健機関 (WHO) が、ツジョンの残存許容量の基準値を定めたことで製造が再開、今日に至る。)

当時も安価なお酒であったことから、生活が苦しかった芸術家たちにも広く愛されたようで、詩人であるランボーはアブサンの事を「美しき狂気」と呼んで愛飲したとされている。
ゴッホが自身で耳を切り落としたのも、アブサンの飲み過ぎが災いしてという逸話もあるほど。

不安で仕方がない時には、酒の力を借りて少しでも楽になりたいというのは分かる気がする。 
例えそれが不本意であったとしても。
毒にも薬にもなるとは、まさにこの事だ。

もしかしたらあの紳士もかつてはこのお酒に溺れてしまったり、或いは救われた過去があったのだろうか。


話をもう一度パスティスに戻すことにする。

細長い専用のタンブラーに注がれたパスティスに水の入った瓶と氷が別で添えられて、ギャルソンが『 Comme Vous Voulez (お好みでどうぞ) 』と提供して席を離れるという何とも粋なサービス。

せっかくなら一番美味しい配合で初めから持ってきてよと思っていたけれど、Steak Tartare (牛のタルタル) 然り、これこそがフランスなのだ。
(* 個人的に最もフランスのエスプリを感じる料理。包丁でミンチに叩いた生肉に調味料やケッパー、コルニッションなどが別で添えられており、自分好みの味わいに仕上げていただく。)


郷に入っては郷に従えとは言ったもので、ワインだけじゃなくフランスの文化そのものを学びに来た私にとって、紳士が振る舞ってくれたパスティスは忘れ難い一杯となった。

実際に何度もこのお酒に救われたし、今は少しだけ紳士のようにパスティスの味わいそのものを愛でることができる。
流暢に話すことは出来ないけれど、少なくともあの時よりは雑談を交えながらの会話ができるくらいには、フランス語も身についただろうか。


酒場に通う楽しみのひとつには、自分では選ぶことのないお酒との出会いがあると思う。

何かいつもと違ったお酒を飲んでみたい時には、一度このパスティスを試してみて欲しい。

正直なところ好き嫌いははっきりと分かれてしまうお酒なので、試しに香りを嗅ぐだけでも構わない。香りすら厳しいのであれば恐らくは…。
その上でもし興味が湧いたのであれば、お気に召すこと請け合いである。

Pastiche - Saint Quent&in 45% / Quentin Le Cleac'h
(パスティーシュ サンカンタン / カンタン ル クリアッシュ)

お店では贅沢にもナチュラルワインを蒸留して造ったスピリッツに様々なハーブを漬けて造られた、上記のパスティスを扱わせてもらっている。大手のものと比べると甘味が少し穏やかで、ハーブの青苦さとまろやかさが際立つ。

少し口に含むと爽やかな南フランスの風を感じていただけることだろう。 

流石にあの時のギャルソンのような粋なサービスはまだまだ出来ないので、私が一番美味しいと思う配合でソーダ割りにしてお出ししている。
そのままでも水で割ってもとても美味しい。

実際にリピートされるお客様も多くて、フランスを愛する酒場の店主としてはこれほど嬉しいことはない。
あくまでもワインを主軸に据えているけれど、ジャンルに関わらず本質的な意味で食文化に触れていただけたのなら、これぞ酒場冥利に尽きるというもの。


芸術家たちがこよなく愛したお酒で身を滅ぼさないよう、節度をもって嗜むというのが目下の課題である。それほどに人を虜にしてしまうような (いい意味で) 中毒性のあるお酒なのだ。




いつの日にか再び紳士とカウンターで隣り合うことができたなら、あの時の言葉を忘れずに今もパスティスを心から愛しているよと、グラスを交わしながらそう伝えたいものだ。






一本のワインとの出会いが、その後の人生を大きく変えてしまうかも知れない。
そんなワインに人生を狂わされ、現在進行形でワインに狂わされ続けている小さなワインスタンドの店主の話。

日々思うあれこれや是非ともお伝えしたいワインに纏わるお話を、このnoteにて書き綴らせていただきたいと思っております。

乱筆乱文ではございますが、最後までお読みいただきありがとうございました。


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