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おいしい記憶って、あると思う



ずっと忘れられない、"おいしい記憶"ってありますか?


涙が出るくらいおいしい料理を食べたとか、人生に一度しか行けないような貴重な食体験をしたとか、そういう類いの話ではなくて、

初めてのデートで緊張しながら食べたオムライスだったり、凍えるほど寒い夜に震えて飲んだ熱々のカップ酒だったり。

たとえそれが特別に美味しいものではなかったとしても、なぜか頭の片隅にずっと残っているような、そういうおいしさってあると思う。

僕にとっての"おいしい記憶"とは、渡仏して間もないころにいただいたクロックムッシュという惣菜だ。



クロックムッシュはハムやチーズ、ベシャメルソースなどを乗せて焼き上げたホットサンドの一種で、1910年ごろにパリのオペラ座近くのカフェで提供されたのが始まりだという。
サンドイッチ用のバケットを切らしてしまったので、代わりにパンドミ (食パン) で代用したものを、表面をカリッと焼き上げて出したそうだ。

いつもと違ったサンドイッチに驚いた常連客が「このハムは何の肉だい?」と聞くと、オーナーは「ムッシュの肉だよ。」と皮肉まじりにそう答えた。
その掛け合いが店内の笑いを誘って注文が殺到したため、いつしか定番のメニューになってしまったのだとか。

クロックムッシュの由来は諸説あるのでどれが正しいかは分からないけれど、洒落っ気のあるこのエピソードが僕は大好きだ。

即興で出した料理が結果として名物料理になるなんて、なんて粋な計らいなんだろう。



croque-monsieur クロックムッシュ 

* 直訳すると「カリッとした紳士」という意味。
croquer (カリカリと音を立てる, かじる)という動詞と、monsieur (男性を指す敬称) から名付けられた。



前置きが長くなってしまったけれど「おいしい記憶」の話に戻そう。


ワインの本質を学びたくて、雀の涙ほどの資金とそれに不釣り合いな情熱を胸に、僕は2015年9月に渡仏を決意した。

到着してからの数日間はパリ市内で滞在し、それから収穫のお手伝いをさせていただいく生産者を目指して、重たいスーツケースをひいてターミナル駅へと向かった。
1日に数本しかない列車だから、決して乗り遅れないように切符の発券も先に済ませたけれど、出発まではまだもう少しだけ時間がある。

そういえば朝からなにも食べていなかった。

パリ滞在でそれなりに出費がかさんでしまったのと、店内でゆっくり食事できるほどの時間の余裕はなかったから、出来れば手軽に済ませたいところ。
適当に売店で買ったものを車内で食べようかと辺りを見渡すと、駅構内の小さなブーランジェリーが目に留まった。

ショーケースにはクロワッサンやカスクート(バケットにハムやチーズを挟んだサンドイッチ)がずらりと並んでいる。
出来るだけ安くて、そして腹持ちのいいものはどれだろうと悩んでいると、馴染みの客らしい紳士がスッと僕の横に並んだ。

『お先に失礼しても?』

まだ決められずにいる僕は彼に順番を譲る。

『いつものクロックムッシュを温めて、すぐに食べるから。』

店員さんも慣れた手つきで、トースターで温めている間に会計を済ませて談笑している。

『 Bonne journée !  (いい1日を) 』

短い言葉を交わして紳士はクロックムッシュを齧りながら、颯爽と列車へと乗り込んでいった。


何気ない日常の風景がとても印象的だった。


気がついたら僕の後ろにはお客さんが並んでいるし、そろそろ急がないと列車に乗り遅れてしまう。

「あの、僕にも同じものをください。」

紳士を真似て店員さんに挨拶をしてから、クロックムッシュを齧りながら駆け足で列車へと乗り込んだ。




窓の外の移りゆく景色をぼんやりと見つめながら、これから始まる素晴らしい日々に胸を高鳴らせる。

ただ彼の真似をして買い物をしただけなのに、なぜか少しだけフランス人の日常に近づいたような気がした。
これからもたくさん彼らの真似をして、たまには恥ずかしい思いもして、少しずつ彼らの感性に触れられたらと思う。

数日間の観光客としての滞在が終わって、本当の意味でのフランス滞在がようやく始まったのだ。



その時のクロックムッシュは、もしかしたらそれほど美味しいものではなかったかも知れないけれど、僕にとっては忘れられない "おいしい記憶" だ。


帰国してからお世話になったお店でも、自分で店を構えた今でも、僕は変わらずクロックムッシュを焼き続けている。

料理人として修行をしたことはないけれど、ジャンボンブラン (豚モモのハム) もベシャメルソースも当時の同僚に教わったものを参考にして、心を込めて仕込んでいる。
単純な作業だけれど奥が深くて、香ばしく焼き上がった香りを嗅ぐだけで幸せな気持ちになる。

細やかだけれど僕なりのフランスの食文化へのオマージュなのだ。



もう10年近く前のことだけれど、今でも颯爽と列車に乗り込む「カリッとした紳士」の後ろ姿が忘れられずにいる。

いつの日にか紳士と駅の構内で再会することが出来たなら、あの時の出会いが忘れられずに今も焼き続けているよと、肩を並べてクロックムッシュを齧りながらそう伝えたいものだ。





一本のワインとの出会いが、その後の人生を大きく変えてしまうかも知れない。
そんなワインに人生を狂わされ、現在進行形でワインに狂わされ続けている小さなワインスタンドの店主の話。

日々思うあれこれや是非ともお伝えしたいワインに纏わるお話を、このnoteにて書き綴らせていただきたいと思っております。

乱筆乱文ではございますが、最後までお読みいただきありがとうございました。



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