怪談:気付かないということ
ぼくは、わりに色々なことに気付かないタチだ。友達に「髪切ったね」と声を掛けたら「切ったの3週間前だよ」と驚かれるのはザラだし、家の近くで新しいお店を発見したことを親に報告すると「5年前からあるよ」などと言われたりもする。「それなりに一生懸命に生きているつもりなのに、どうしてこんなにも周りが見えていないんだろう」と、そのたびに軽く落ち込む。ただ、世の中というものはなかなか上手く出来ていて、たまにはこのポンコツさが役立つこともあるようなのだ。
今住んでいる団地に越してきたのは、2017年の夏だった。当時高3だったぼくは、受験生を抱えているのになんだって引っ越しなんかするんだ?と呑気な両親に軽く憤りを覚えた。まあ、ぼくが苦しみに喘ぐ期末テスト期間中に、ふらっと2人きりで旅行に行ってしまうような両親である。今回の引っ越しも、ふっと気が向いた結果なのだろう。小2から住んでいた一軒家をけっこう気に入っていたので、急に引っ越すことになって一時はかなり残念だったが、住めば都というやつで、今ではこの団地もお気に入りになっている。
団地に越してきてしばらく経った、ある日の夕食のことだった。電子レンジのボタンを押した母親が、思い出したように「そういえば引っ越してからエラーにならないね」と言った。たしかにそうだなあと思った。というのは、前の家に住んでいた時、電子レンジは頻繁にエラーの「E」という表示を出していたのだ。奮発して良いレンジを買ったのにそんなふうなので、母は「頭良すぎてバカになっちゃった」というよくわからない悪口をレンジに向かって浴びせていたものだ。
「やっぱり、ね」
呟いた母の口ぶりが引っ掛かったので、「何がやっぱりなの」と訊いた。うーん、と何度か話をはぐらかそうとするので、気になってしつこく訊き続けたら、教えてくれた。正直、訊かなければよかった。
ここらで、前の家の話をしておく必要がある。大まかに間取りを説明すると、1階は客間とクローゼット、2階はリビングとダイニングとキッチン、3階は寝室、そしてその上には屋上があった。家族は主に2階にいて、洋服を取りに行く以外で1階を使うことはほぼない。
飲食店を経営する母は、店じまいやら何やらで、帰りが遅くなる。その日もすっかり日付を超えてしまい、父とぼくは寝静まった後だった。起こしてしまうといけないと思い、母は電気を点けずに玄関から2階への階段を上がろうとした。玄関から階段はほんの1メートルほどの距離なので、視界が悪くても勝手は分かっている。靴を脱いで、顔を上げたその時だ。客間からガレージに面した窓へ、つまり母から見て右から左に、髪の長い女がすっと横切った。
「コラァ!!!!!!」
母はとっさにそう叫んだという。食卓でのいきなりの告白に、ぼくはしばらく「ヤバ」としか言えなかった。
「幽霊もヤバいけどママもヤバいでしょ」
「だってああいうのは撃退しなきゃいけないから」
肝っ玉の据わった母であることは分かっていたが、改めて感服せざるを得なかった。
「でもね」
「何」
「これは別にたいしたことなかったの」
「え、ちょっとやめてよ」
「1番ゾッとしたことがあって」
次の住人に前の家を引き渡す日だった。引き渡し日の前日の時点で、前の家の荷物は全て現在住む団地に運び込み、家の中はもぬけの殻。前の家の鍵は母が持っており、誰も家に入ることはできない状態だった。前の家のお隣さん(仮にOさんとする)が、母にこう言った。
「昨日ベランダでお話しましたね」
母は面食らった。たしかに前の家のベランダとOさんの一軒家のベランダは共に3階にあったので、母とOさんは洗濯物を取り込みがてら、よく世間話をしていた。だが、昨日は誰もこの家にはいないはずだ。
「え?でも...」
お隣さんが不思議そうにするので、母はその人物の特徴を尋ねた。家には何もなかったとはいえ、泥棒だったら大変だと思ったらしい。
「ショートカットの女の人で」
「えっ」
「奥さんだと思ったんだけど」
「でも私いま、」
自分の髪を束ねている母と、母の言わんとしていることがわかったOさんは絶句した。
「髪の長さ、違うわねえ」
「違いますよねえ」
「あれ?奥さんだと思ったんだけど、暗かったからちゃんと顔を見ていなかったのかも」と不思議がるOさんとショートカットの女がどんな話をしたのか、さすがの母も訊けなかった。いったい、誰だったのか。
「でもね、今思い返してみると、あれもそうだったのかなあ、みたいなこと結構あるのよ」
前の家にはアルソックのホームセキュリティサービスが付いていた。日中、両親は仕事に出かけ、ぼくも学校で家を空けている。このサービスは、留守中の家に侵入者が入った場合、それをアルソックのセンサーが感知し、警備会社を通して両親の携帯に連絡が行くというものだった。このサービスが、数回機能したことがあるという。連絡を受けるたび、両親は飛んで帰って家中を点検したが、何かが盗まれていたり誰かが侵入した痕跡は無かった。
ただひとつ不審な点は、屋上へと続くドアの鍵が開いていたことだった。屋上は実質4階の高さにあるので、屋上から誰かが侵入したとは考えにくい。家の中に侵入者の痕跡がない以上、このドアの鍵は元々かけ忘れられていたと考えるのが自然だが、この可能性は父が「家を出る時に全ての戸締りを確認しているからそれはない」と断固として否定した。証拠があるわけではないが、ぼくも父の言い分は正しいのではないかと思う。父はとても几帳面な性格で、1日たりとも植物の水やりを欠かしたことは無いし、毎日ぼくに口を酸っぱくして戸締りの注意をしてくる。
いつも「E」を出す電子レンジ、素性のわからぬ2人の女、アルソックからの電話。前述のように飲食店を営んでいる母は、日頃からそういうことに詳しいと常連客の間で評判のお客さんに、前の家の一連の出来事を話してみた。
「近くにお寺とかお墓なかった?」
たしかに、家の客間側から数百メートルのところに、お寺とそこに併設されたお墓があった。そう母が答えると、お客さんは「じゃあ、ちょうど通り道になってたんだ」と言った。
お客さんの推察では、前の家の1階は霊道になっていたのではないかということだった。一軒家にお住まいになったことのある方はお分かりだと思うが、一軒家の1階というのは寒い。寒いからほぼ使わなくなる。人が使わなくなったところは、やはり良くないものが溜まりやすくなる。「家って使ってあげなきゃだめなんだね」というのは、母の言である。
そこまで言われれば、ぼくも思い当たる節がある。母方の祖母は、前の家に遊びに来た時、やたらと早く帰りたがった。それに、1階が霊道であったらしいこと、屋上の鍵が空いていたことを考え合わせると、ある仮説が立つ。なんというか、それらは1階から屋上まで、上がってきていたのではないか?
前の家をめぐる顛末を知り、ぼくは自分が何にも気付かないポンコツであることに感謝さえするようになった。前の家に住んでいた時にこれらの現象に気付いていたら、ぼくはまず間違いなく家に帰れなくなっただろう。あの家で1人で留守番をすることがよくあったが、全てを知った今となっては、よくそんなことができたなとしか思えない。もっとも、当時のぼくはテレビを観てごろごろしたり、呑気にお菓子をぼりぼり食べていたわけなのだが。
こういうわけなので、髪を切った友人各位は自己申告してください。申し訳ないけど、ぼくが自分から何かしらの変化に気付くようになったなら、気付かなくていいものまで気付いてしまう気がして怖いのです。その代わりといっちゃなんだけど、たくさん褒めるつもりでいますので。