思想ではなく、思考を深める
約1年ぶりに旧友と再会した。
これまでリモート飲み会では何度か顔を合わせていたものの、やはり対面でコミュニケーションを取るだけでこんなに笑いが起きるんだなと感慨深いものがあった。
関係性を深めるコミュニケーションって、表情や声、相手の主張を傾聴するだけでは成立しないんだなということも改めて感じた次第。
皆それぞれ住んでいるエリアも違うし、仕事もあるしで頻繁には連絡を取らないけれど、中学時代という一番多感な時期に、放課後の下校時間まで廊下にたむろしてダベったあの時間。
大して意見も言わずキャラも薄かった自分を受け入れてくれた友人だからこそ今でも関係が破綻しないのだと思う。
当時も彼女たちとは部活は違ったし、サブカルに全く興味がなかった私だけれど、毎日一緒にいたのがすごく不思議だったりもする。
あの頃に比べたら家族以外の他人に対して、いくらか意見を言えるようになったのは、大人になれてるということなんだろうか。
今の自分の価値観はもちろん嫌いじゃない。
だけど、あの頃のような「知らないだらけの世の中」で、信用できる人を頼りにもがいてたあったからこそ、今の自分の選択があるようにも思う。
過去って、完全に否定すると、自分の存在や価値観を否定することにもなるから扱いが難しい。
歴史にも同じことが言えて、例えばとある暴動やデモがあった時、記す人によって見え方が180度違うなんてことはよくある。
その歴史を解釈する際に、「こっちが絶対正しい」なんてものはなくて、どちらかの立場に立って解釈をしているという自覚を持つ必要があるだろう。
まさに今、香港の雨傘革命について、活動を推進したジョシュア・ウォン(黄之鋒)氏のエッセイを読んでいる。
ジョシュア氏とは年齢が近い上に、私自身、故郷として認識しているのが「中国・香港」ではなく「香港」であるからこそ、彼らがなぜこんなにも必死に自由を守るために活動を続けてきたのかが書面からでも伝わってくる。
全身全霊で生きるというのはきっと彼の生き方を指すのだろうし、将来の自由のために今の犠牲を厭わないという生き方を全うできるのは並大抵の精神力では無理だろう。
自分自身が同じように振る舞えるかどうかはさておき、故郷に対して自分は何かできるのか・・・?
そんなふうに改めて考えるようにもなった。
こんな感じで、定期的に自分のアイデンティティを見つめ直すことがある。
●●人だからこうあるべき!と考えるのはナンセンスだと思っていて、どちらかというと、●●という問題について、私はどう考えるのかを整理することが大切なのだと思う。
こんな感じで考えるので、特定の宗派や政党を支持することもないし、決める必要もないと思っている。
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