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余計な世間をくっつけるな。

(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?)―「人間失格」太宰治


この1週間で2人の音楽の超一流のプロフェッショナルの方に、演奏を聴いていただいて、わたしたち【クレモナ】への感想とご意見を聞かせていただいた。

評価は、わたしたちが自分たちに対して思っているよりはるかに良いもので、さらなるステップアップへのアドヴァイスを頂戴した。

「身に余るほどの」

と表現したくなるくらい、ありがたくてとても嬉しい言葉ばかりで、ああこのコロナ禍腐らず前向きにやってきて良かったよな…と思った。

それと同時に、わたし自身の自信のなさや「世間の目」に対する媚や怖れも改めて見つめ直さざるを得なかった。

わたしたちは「こうあるべき」と思っているんだろうな、と感じられる言葉を特に最近よく投げかけられる。もしかしたらその人たちにとって、わたしたちはずっとチケットを買って買ってと懇願し続けてる可哀そうな子たちなのかもしれない。いつまでたってもナチュラルで「木綿のハンカチーフ」の「恋人」みたいな、都会とはかけ離れた田舎もんの女子4人組なのかもしれない。

上手くなること、賢くなること、綺麗になること、金持ちになること。

それに向かって努力し続けないといけないし、努力し続けているつもりでいるのだが、「世間の目」のせいにして振り切れない自分がいることに気が付いた。

「世間」とは、自分がつくった「思い込み」と「自己防衛法」なのだと思う。実際の「世間」は思ったほど自分を見ていないし、期待もしていないのだ。おそらく。その中で謙遜や謙虚というのは美徳でもなんでもなくて、自分をその世間の穴に埋めていくことでしかない。

では自分はいったい何に応えないといけないのだろうかと考える。それは、わたしにとっては自分の「理想」と「夢」になる。誰にも追いかけられない、自分だけの自分の「こうなりたいからこうあるべき」を厳しく持ち続けないといけない。熱いものを持つときに反射で離したくなるが、そこをぐっと我慢して、持ち続けないといけない。それを持ち続けることは恥ずかしいことでも何でもないはずなのだ。

監督かじくんの名言です。

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「自分の心のまわりに余計な『世間』をくっつけて、その目を気にして生きてませんか?これを自分自身で行っているのだから、わたしからすればひとり芝居をしているとしか思えない。」


今日、ついに録音の第一ミックスが上がった。「ブエノスアイレスの夏」を聴いて泣いた。ここまで来たんだな、とアツくなって泣けた。




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