器用貧乏について
わたしがバンドマスターを務める『クレモナ』モダンタンゴ・ラボラトリは、「アストル・ピアソラ」という作曲家を専門に音楽を学んでいる。ピアソラという作曲家はクラシック音楽の作曲家だということは自信を持って言えるが、それだけではない。クロスオーバーと言うにはピアソラの音楽というのはアーティスティックすぎるし、媚びていない。うーん、なんというか、「ピアソラ」という新しいジャンルなんよね。その先にいるのが、わたしたち。
2021年1月12日の器用貧乏
わたしは基本的に体育と図工以外はなんでもできた。絶望的なウンチ(運動音痴)だったし、絵は絶望的に下手だった。しかし、それ以外はどれをとっても平均は簡単に超えられたし、なんなら良い成績も残すことができた。
それでも。どれをとってもわたしよりすごい奴は必ずいて、絶対一番にはなれなかった。いつしか自分に対して「器用貧乏」というレッテルを貼ることになった。
「器用貧乏じゃあね」「器用貧乏じゃだめ」みたいな言葉を聞くたびに自分のことを言われている気しかしなくて、悔しかった。別に自分のことを言われているわけじゃないのに、嫌だった。
ピアソラに対してのあこがれ
わたしがピアソラに入れ込む理由はここにもある。
彼はクラシックとしても、タンゴとしても、テクノやジャズやロックとしても、現代音楽としても、自分の音楽を生み出すことができた。どこを取ってももちろん代表には選ばれないんだけど、その音楽はピアソラにしかできない。専らアートに寄っていて、商業音楽にならない。(ピアソラがそういう意識があったかなかったかは別にして。)しょうもない音大生にまで「ピアソラなんかで商売にならない」と鼻で笑われる音楽家だ。
ある意味器用貧乏だったのかもしれない。ある意味不器用だったのかもしれない。しかし、ピアソラの音楽はこうしてわたしをはじめ、ある一定の人の心をわしづかみにするのだ。
足し算でなくてかけ算する
ピアソラの音楽は足し算でなく、かけ算だ。常にすべての要素がかかりあい、膨れ上がる。しかも、先に足し引きされたものをかけるので、無駄がない。
2021年、ピアソラの生誕100周年にわたしがわたしに求めるのは、「かけ算」だ。ファゴットはもちろん、ピアノも弾けて、歌も歌える。チラシも自分でばっちり作れて、動画も触れる。オンラインにも対応できる。コーヒーにおいては、それぞれの豆の生産地について理解している、それぞれの豆にあった焙煎ができる、それぞれの味についてきちんと言葉を持てる、そしてドリップできる。それなりに人前で話もできる。
どれをとっても一番じゃないけれど、どれもこれもかけ算の要素だと思えば、そこに「唯一無二」が生まれる。クリエイティブが生まれる。
ピアソラの音楽のような「絶対的な器用貧乏」であること。これが今年のわたしの大きなテーマである。
今日のほっけちゃん
そろそろです。
本当に。マタニティフォトだと言って撮ってみましたが全然そんな風に感じられない。
でもとっても膨れていて、もう本当にそろそろベイビーが出てくるみたい。
13日は新月の大潮。子猫に会えるのももう間近。