「仮面の告白」とその他文学作品《三島由紀夫》
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以下の内容はfufufufujitaniさんによる読み解きの細部を補う内容となります。
太宰治「人間失格」
上の表のように、「仮面の告白」の場面は「人間失格」を下敷きにしているものが多いです。
夏目漱石「こころ」
様々な作家に影響を与えてきた「こころ」が、恐らく典拠の一つになっています。
「こころ」の語り手である「私」の父は、亡くなる直前、浣腸します。漱石作品群をうまく落とし込んだ「暗夜行路」も浣腸しますし、「人間失格」のヘノモチンによる「猛烈な下痢」はこれに対応します。また、fufufufujitaniさんのご指摘通り、「こころ」「人間失格」は日本の歴史を物語にしています。
三島に関して言えば、「春の雪」における女性の二面性の強調は、「こころ」の先生が感じる奥さんの二面性に影響を受けています。
村上春樹の小説に満州が頻出するのは、恐らく漱石の影響によるものです(満州帰り、軍人の娘。「こころ」ヒロイン静もこの系譜)。「奔馬」のヒロインである鬼頭槙子も軍人の娘ですね。
さて、本題に戻ります。
第二章に登場する近江≒聖セバスチャンは、「こころ」のK≒西郷に対応すると考えられます。五六、五七頁ではKのイメージと重なるよう、「OMI」とローマ字表記が強調されています。近江≒聖セバスチャンは「叛逆」の結果「処分」されます。
壬申の乱という内乱の結果、都は近江から飛鳥へ戻ります。
西南戦争という内乱の結果、西郷は自刃、新政府が勝利します。
「こころ」ヒロインの静は先生と出逢った当初、琴を弾いています。
「仮面の告白」ヒロインの園子は「私」と出逢う直前、ピアノを弾いています。
どちらもあまり上手い演奏ではありません。女としての未熟さが描写されている場面です。
「こころ」の先生は、叔父の娘との結婚を断ります(下の九、文庫版一九一頁)。
「仮面の告白」の「私」もまた、園子との結婚を断ります(第三章、文庫版二〇〇頁前後)。
女性を拒絶するのは「春の雪」も同じですね。
また、先生の恋愛を信仰と重ねる見方は「仮面の告白」の「私」と類似しています。
「罪に先立つ悔恨」については後段にて解説します。
プルースト「失われた時を求めて」
以前、リクトーさんの上の記事を拝読した時、内容を一切疑わず、(この読みは正解だな)と即断しました。「仮面の告白」に次のような会話があったことを覚えていたためです。
「失われた時を求めて」の第四篇は「ソドムとゴモラ」です。仮面の告白のパラグラフは「カラマーゾフの兄弟」において、「悪行(ソドム)」について述べられている部分(第三篇の第三、熱烈なる心の懺悔——詩)の引用ですが、これはプルーストを踏まえたものと考えられます。
「仮面の告白」は、青年平岡公威が作家「三島由紀夫」という「仮面」を生きることを決意する、その瞬間に至るまでを「告白」した作品です。作中、主人公の作家としての側面が徹底して排除されているのもそのためです。
そして「失われた時を求めて」もまた、「最後に語り手が自覚する作家的な方法論の発見で終る」作品だったのです。
・「罪に先立つ悔恨」
物語の結末で語り手が、作家としての方法論を発見し、それを作品という形で反芻する。これはつまり時間を巻き戻す行為です。上の引用部分にあった「罪に先立つ悔恨」とは、時間を巻き戻していることの宣言です。当たり前ですが、本来罪は悔恨に先立つものであり、逆はありえません。語り手が「仮面」という方法論を見出し、それに従って語り直しているからこそ、それは生まれるのです。
フリードリヒ・フーケ「水妖記(ウンディーネ)」
「仮面の告白」の作中、園子がフリードリヒ・フーケ「水妖記(ウンディーネ)」を読んでいる場面があります。第三章、文庫版では一三八頁の箇所になります。
「水妖記」は騎士が貴婦人とウンディーネをめぐりいざこざがあった後、ウンディーネによって殺される話。
騎士は「私」、貴婦人は園子、ウンディーネには「二十二三の、粗野な、しかし浅黒い整った顔立ちの若者(第四章、文庫版二三四頁)」が対応すると考えられます。ただし未読ですので読み終わり次第、再度考察してみます。
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