「仮面の告白」とその他文学作品《三島由紀夫》

※当記事は最後まで無料で読むことができます。投げ銭感覚で購入して頂ければ幸いです。

 以下の内容はfufufufujitaniさんによる読み解きの細部を補う内容となります。

太宰治「人間失格」

 上の表のように、「仮面の告白」の場面は「人間失格」を下敷きにしているものが多いです。

夏目漱石「こころ」

 様々な作家に影響を与えてきた「こころ」が、恐らく典拠の一つになっています。

 「こころ」の語り手である「私」の父は、亡くなる直前、浣腸します。漱石作品群をうまく落とし込んだ「暗夜行路」も浣腸しますし、「人間失格」のヘノモチンによる「猛烈な下痢」はこれに対応します。また、fufufufujitaniさんのご指摘通り、「こころ」「人間失格」は日本の歴史を物語にしています。

 三島に関して言えば、「春の雪」における女性の二面性の強調は、「こころ」の先生が感じる奥さんの二面性に影響を受けています。

私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を能く観察していると、何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、或場合には、私に対して暗に警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。

夏目漱石「こころ」新潮文庫
下 十四(二〇五頁)より

 村上春樹の小説に満州が頻出するのは、恐らく漱石の影響によるものです(満州帰り、軍人の娘。「こころ」ヒロイン静もこの系譜)。「奔馬」のヒロインである鬼頭槙子も軍人の娘ですね。

 さて、本題に戻ります。

 第二章に登場する近江≒聖セバスチャンは、「こころ」のK≒西郷に対応すると考えられます。五六、五七頁ではKのイメージと重なるよう、「OMI」とローマ字表記が強調されています。近江≒聖セバスチャンは「叛逆」の結果「処分」されます。

 壬申の乱という内乱の結果、都は近江から飛鳥へ戻ります。
 西南戦争という内乱の結果、西郷は自刃、新政府が勝利します。

 ……するとこの「悪」の意味は私の内部で変容して来た。それが促した広大な陰謀、複雑な組織(システム)をもった秘密結社、その一糸乱れぬ地下戦術は、何らかの知られざる神のためのものでなければならなかった。彼はその神に奉仕し、人々を改宗させようと試み、密告され、秘密裡に殺されたのだった。彼はとある薄暮に、裸体にされて丘の雑木林へ伴われた。そこで彼は双手(もろて)を高く樹に縛められ、最初の矢が彼の脇腹を、第二の矢が彼の腋窩を貫いたのだった。

三島由紀夫「仮面の告白」新潮文庫
第二章(八五頁。カッコ内はルビ)より

 「こころ」ヒロインの静は先生と出逢った当初、を弾いています。
  「仮面の告白」ヒロインの園子は「私」と出逢う直前、ピアノを弾いています。
 どちらもあまり上手い演奏ではありません。女としての未熟さが描写されている場面です。

 「こころ」の先生は、叔父の娘との結婚を断ります(下の九、文庫版一九一頁)。
 「仮面の告白」の「私」もまた、園子との結婚を断ります(第三章、文庫版二〇〇頁前後)。
 女性を拒絶するのは「春の雪」も同じですね。

 また、先生の恋愛を信仰と重ねる見方は「仮面の告白」の「私」と類似しています。

私はその人に対して、殆んど信仰に近い愛を有っていたのです。私は宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、貴方は変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものではないという事を固く信じているのです。私は御嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。(中略)私はもとより人間として肉を離れる事のできない身体でした。けれども御嬢さんを見る私の眼や、御嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭を帯びていませんでした。

夏目漱石「こころ」新潮文庫
下 十四(二〇六、二〇七頁)より

 私は私のほうへ駈けてくるこの朝の訪れのようなものを見た。少年時代から無理矢理にえがいてきた肉の属性としての女ではなかった。もしそれならば私はまやかしの期待で迎えればよかった。しかし困ったことに私の直感が園子の中にだけは別のものを認めさせるのだった。それは私が園子に値しないという深い虔(つつ)ましい感情であり、それでいて卑屈な劣等感ではないのだった。一瞬毎(ごと)に私へ近づいてくる園子を見ていたとき、居たたまれない悲しみに私は襲われた。かつてない感情だった。私の存在の根柢(こんてい)が押しゆるがされるような悲しみである。今まで私は子供らしい好奇心と偽わりの肉感との人工的な合金(アマルガム)の感情を以(もつ)てしか女を見たことがなかった。最初の一瞥(いちべつ)からこれほど深い・説明のつかない・しかも決して私の仮装の一部ではない悲しみに心を揺さぶられたことはなかった。悔恨だと私に意識された。しかし私に悔恨の資格を与えた罪があったであろうか? 明らかな矛盾ながら、罪に先立つ悔恨というものがあるのではなかろうか? 私の存在そのものの悔恨が? 彼女の姿がそれを私によびさましたのであろうか? ややもすれば、それは罪の予感に他ならないのであろうか?

三島由紀夫「仮面の告白」新潮文庫
第三章(一三二、一三三頁。カッコ内はルビ)より

 「罪に先立つ悔恨」については後段にて解説します。

プルースト「失われた時を求めて」

 以前、リクトーさんの上の記事を拝読した時、内容を一切疑わず、(この読みは正解だな)と即断しました。「仮面の告白」に次のような会話があったことを覚えていたためです。

「マルセル・プルゥストの本を君から借りる約束だったね。面白いかね」
「ああ、面白いね。プルゥストはソドムの男なんだよ。下男と関係があったんだ」
「何だい、ソドムの男って?」
 私が知らないふりをすることで、この小さな質問にすがって、私の失態が気づかれてはいないという反証の手がかりを得ようと、力の限り足掻いているのが私にはわかった。
「ソドムの男ってソドムの男さ。知らないかなあ。男色家のことだよ」
「プルゥストがそうだとは初耳だな」——私は声がふるえるのを感じた。怒りを見せれば相手に確証を与えるようなものだった。私はこんな恥ずべき見かけの平静に耐えられる自分が空恐ろしかった。例の友人がかぎつけていたことは明白である。心なしか彼は私の顔を見まい見まいとしているように思われた。

三島由紀夫「仮面の告白」新潮文庫
第四章(二一〇、二一一頁)より

 「失われた時を求めて」の第四篇は「ソドムとゴモラ」です。仮面の告白のパラグラフは「カラマーゾフの兄弟」において、「悪行(ソドム)」について述べられている部分(第三篇の第三、熱烈なる心の懺悔——詩)の引用ですが、これはプルーストを踏まえたものと考えられます。

 「仮面の告白」は、青年平岡公威が作家「三島由紀夫」という「仮面」を生きることを決意する、その瞬間に至るまでを「告白」した作品です。作中、主人公の作家としての側面が徹底して排除されているのもそのためです。
 そして「失われた時を求めて」もまた、「最後に語り手が自覚する作家的な方法論の発見で終る」作品だったのです。

・「罪に先立つ悔恨」

 物語の結末で語り手が、作家としての方法論を発見し、それを作品という形で反芻する。これはつまり時間を巻き戻す行為です。上の引用部分にあった「罪に先立つ悔恨」とは、時間を巻き戻していることの宣言です。当たり前ですが、本来罪は悔恨に先立つものであり、逆はありえません。語り手が「仮面」という方法論を見出し、それに従って語り直しているからこそ、それは生まれるのです。

フリードリヒ・フーケ「水妖記(ウンディーネ)」

 「仮面の告白」の作中、園子がフリードリヒ・フーケ「水妖記(ウンディーネ)」を読んでいる場面があります。第三章、文庫版では一三八頁の箇所になります。

 「水妖記」は騎士が貴婦人とウンディーネをめぐりいざこざがあった後、ウンディーネによって殺される話。
 騎士は「私」、貴婦人は園子、ウンディーネには「二十二三の、粗野な、しかし浅黒い整った顔立ちの若者(第四章、文庫版二三四頁)」が対応すると考えられます。ただし未読ですので読み終わり次第、再度考察してみます。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?