カント まとめ
批判=kritik
ギリシア語で「分ける」という意味
クリノーという言葉に由来
ヒュームの問題点
『ヒュームの警告こそが、独断のまどろみから私の目を覚まさせ、
私の探求にまったく新しい方向を示してくれた』
理性は知識や経験が束になって作り出されたものに過ぎない
→なぜ人間同士で共通の認識を共有できるのか
人間の認識は確かに経験の束と言えるが
その経験や知識を受け取る方法には
先天的に特有のパターンがあるのではないか
ヒュームの思想…懐疑論
人間の認識は単なる知覚の束であるから、それぞれの人間に共通した普遍的な真理は存在するはずがない
哲学が無意味なものに
真理を追求する学問が続いていく理由さえも無くなる
「真理」の変化
カント以前とカント以降で、【真理】の意味が変化
・それまでの【真理】
…この世の根本原理・宇宙の法則etc
・カントが言う【真理】
…あくまで【人間にとっての真理】
人間以外には共有することのできない、限定されたもの
人間は何かの物事を認識する際に必ず先天的な受け取りのパターンを利用
それを飛び越えてその物自体を観測することも考えることも不可能
特定のパターンによって世界を認識するからこそ認識の共有が可能
物自体が含まれる真理に関しては理性で突き止めることはできない
→人間が考えるべきは外部に最初から備わっていた真理ではなく
人間が規定する人間のための真理
物をそのまま認識することができず、
物が現れる通りにしか認識できない
→『認識のコペルニクス的転回』
『カント以前の哲学は全てカントに流れ込み、それ以後の哲学は全てカントから流れ出る』
それまでの哲学を支えてきた理性を一旦整理し、新しく哲学を定義し直す
二律背反【アンチノミー】
相反する二つの命題が矛盾しながらもお互いに成立している状態
例:時間・空間の二律背反
テーゼ(正命題)
→『世界は時間・空間的に有限である』
アンチテーゼ(反命題)
→『世界は時間・空間的に無限である』
それぞれを証明するのではなく、 反対意見を論破する、いわゆる背理法を用いて主張の正当化を図る
少なくとも我々の認識では、時間は過去から流れてきて、 今その先端を生きている
→時間の先端(終わり)という概念が 存在してしまうことに
→『世界が時間・空間的に無限である』というアンチテーゼは破綻
アンチテーゼが破綻するならばその対概念のテーゼが正しい
『世界は時間・空間的に無限である』
→テーゼの『世界は有限である』を破綻させることができれば世界は無限と言える
世界が時間・空間的に有限であるのであれば、世界には始まりが存在すると言って良い
仮に世界に始まりがあるとする→ 世界が始まる前には何があったのか
完全なる無から有が生まれることはなく、 必ず世界の始まりの前には【何か】があったはず
その【何か】の前にも必ず【別の何か】があった。 これが理論上永遠に続くため、 世界は非有限
故に時間・空間的に無限であるが正しいと言える
互いの立場から背理法にて証明を行うと、 お互いが正しいという結論にも、お互いが間違っているという結論にも同時に至ってしまう
『世界の最小単位は存在するか』 『人間に自由はあるか』 『神は存在するか』 etc...
このような形而上学的な問いに理性のみで答えようとすると、 必ず二律背反の状態に陥る
ア・プリオリ
・ 大陸合理論(デカルト・方法的懐疑)→【疑っているこの自分】だけは疑いようがない
極端に言えば、理性だけが絶対に確実、 それ以外は不確実
【演繹法的に】真理を追求
・イギリス経験論側→我々の理性は経験の蓄積に過ぎない
経験だけが唯一確実なもの、 理性を神聖視するのは間違っている
【帰納法的に】真理を追求
理性、認識は確実なものか、不確実なものなのか
カントはこの両方を否定
以前の哲学→間違いなく正しい何かを設定、そこから理論を発展
その大前提はいわゆる【物自体】
モノ自体と我々が認識できる現象とを同列に語ってしまうと、 二律背反が起こり、 人間は物自体を認識できない
我々は日々経験する事柄について
普遍性は必然性を考えている
我々に普遍性や必然性を語る権利があるのか
「ア・プリオリな認識」…経験に依存せず普遍性と必然性を持つ認識
「ア・ポステオリな認識」…経験に依存する認識
『対象が認識に従う』…
我々の認識には必ず対象がある
『認識が対象に従う』(カント)…
経験に由来する自然現象を成立させるのは認識
カント→一番最初に行われているのは『見る』という行為。 感性によって行われる
直観した情報を理性(悟性)が受け取り、 その結果、対象が認識される
対象よりも先に認識が存在している『対象が認識に従う』
【物自体】を直観的に見て、我々に先天的に備わった生得観念【ア・プリオリ】を使って 空間的、時間的にその情報を整理
感性によって得た直観を自身の理性によって処理、 その際に【カテゴリー(純粋理性)】と呼ばれる生得観念に働きかけ 赤いだとか、果物だとか、甘いなどの結果が返ってきて それによって直観しているものがリンゴだと認識できる。この認識が【観念】
これらの、物事を認識・分析・判断する能力・悟性→ 【理論理性】
カントはGodを否定せず、 Godについてはわからない、とした
実践理性
カントは人間の理性を二つに分けて考える
・理論理性…認識する力のこと。 〜である、のような経験できるものに限った理性のこと
・実践理性… 〜すべきのような意思決定をする力を持つ理性。
【現象界】…理論理性で認識できる範疇
【英知界】…モノ自体が存在する範疇
人間の認識能力ではモノ自体に到達できないため、 神や魂についてであるとか、本当に善いことなどについては 認識することができない。
ただ、それでは人間が生きていくための指針が全く見えなくなってしまうので 英知界と関わるための理性を想定する必要があった
実践理性は普遍的な道徳法則に基づいて作用する
道徳形而上学
道徳…条件なしの理性の命令、無条件で行われる善
主著【道徳形而上学】
『道徳は経験や環境によって規定されるものではなく
先験的(アプリオリ)に備わっているもの』
主張
『君の格率が、すべての人に妥当する普遍的法則になることを
欲するような格率に従って行為せよ』
人格を目的として捉え、自らの内にある善意志の命令に従って行動せよ
自分の善意志のうちから湧き出た【定言命法】のうち
客観的に見て、他の人間の法則にも当てはまる普遍的な道徳を実践せよ
【自律】…自らの道徳法則に従う
【善意志】…先験的に人間に備わっている、単純に善いことをしようとする意志
善意志が規定した【義務】は人間の行動指針に
人間がその義務に従って行動した場合、それ自体が善であり
それがつまり道徳的行動
人間が行動する際には二つの原則が働く
①【格率(マクシーメ)】
主観的な行為の原則
腹が減ったから盗むなどの悪い原則から、 困っている人を助けるとか、人に感謝をするなどの善い原則まで含まれる
②【実践的法則】
格率とは違い客観的な原則
自分だけに通用するのではなく全ての理性的存在者に通用する普遍的な原則
この全ての理性的存在者に備わった原則を【道徳法則】と呼ぶ
①定言命法
〜すべきだという形式の命令、無条件の命令
例)困っている人がいたら助けよ
②仮言命法
もし〜なら〜せよ。という形式の命令。条件ありの命令
例)もし荷物を持ってあげたら、お礼に何かもらえるんじゃないか
善い行いをするためには行動が手段になってはならない
行動はそれ自体が目的で、そのような行動はそれ自体が善
定言命法・仮言命法は主意主義・主知主義に類似?
定言命法、主意主義…条件なしの一方的な贈与。互酬関係の否定
仮言命法、主知主義…互酬関係に基づいた、見返りを期待した贈与。時間差を置いた交換の肯定
カントは以上のような前提の元
論理的に道徳を考察し『絶対にやってはいけないこと』を4つ挙げている
『自殺』『返す当てのない借金』『才能があるのに発揮しないこと』
『困っている人を助けないこと』
これらは人間が先験的に備えている善意志に背いた行為
人間は【感性的存在者】であると同時に【理性的存在者】 でもある
【感性的存在者】…人間の生理的欲求に素直に行動する存在
【理性的存在者】…自己を律する理性に従う存在
『すべての理性的存在者は手段ではなく目的と同一である』
人間は手段ではなくそれ自体が目的…実存主義的
【目的の国】…人が人のことを目的と認識して定言命法に従って暮らす理想の国家
一般意志
カントの「一般意志」は近代国家の全体主義の源流?
全体主義者は国家の成立を逆に捉えている
家→共同体→国家というふうに思考が転倒している