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クモ哲学

 ハロウィンのこの時期、ロンドンの住宅街を歩いていると毎年どうしても目がいき、うーむと唸ってしまうもの。

 それは、素敵な家々のフロントドアや壁に張り巡らされた、デコレーション用のクモの巣や、黒い大きなクモのオブジェクトである。

 なぜ気になってしまうのか。それはうちには自然にできていくクモの巣がたくさんある一方で、手をかけて敢えてクモの巣を飾っている家々との差を感じずにはいられないからかもしれない。

 では需要と供給のバランスに従って、うちのクモの巣を売れないだろうか。100%ナチュラル、着色料不使用、保存料不使用。もちろんこれは冗談なのだけど、そもそも売るなんて随分クモの権利を無視した発想だとはっとする。

 一度、窓越しにクモがせっせと巣を築いていく姿を見ていたことがある。その仕事量たるや大変なものである。休むことなく、ずっと働き続けていた。そしてその効率性を兼ねた美しい形状はまさに職人技なのである。

 かといって働いた分の見返りが必ずしもあるとも限らない。何かの拍子で壊されてしまうかもしれない。それでもクモは働くことをやめない。

 そんなクモの作品を売るなんてだめに決まっている。巣の張り替えの時に糸をリサイクルするクモもいるという話も聞いたことがある。

 しかしながら、うちの中にクモの巣が増えていき、クモと思わぬところでばったり会うのは正直避けたい。クモ自身も巨大な私のことが怖いだろう。

 というわけで偶然うちの中にクモが入ってきた場合、瓶によるフライトでうちの最寄りの木の幹まで移動いただいている。道ゆく人に見られると、何をしてるの?と思われるに違いないこの移動について、記事に書いたこともありました。

 正直ドキッとしてしまって苦手な存在なのだが、それだけで終わってしまっていてはだめな気がする存在。その行動や意味を知っていくべき存在。そんな風にも感じている。

 ハロウィンのこの時期、私が考えてしまうのは、かぼちゃのランタンでも、お菓子でもなく、クモなのであった。

#doyouknow_beforeyousayno
#苦手との対話

指でお絵描きはブレブレだったよ



 
 ハロウィンは何もしないけれど、意外と記事は書いていたのでした。