出産エピソード1(長女の場合)

長女が20歳の誕生日を迎えた。ハタチ。

同時多発テロという、世界の構造を揺るがすような大事件が起こった数日後に誕生した。その覚書。

結婚2年目に身ごもった。予定日は9月末。8年後に生まれることになる長男と予定日が同じ(彼は予定日に生まれた)で、職場の先輩や、義妹の誕生日である日。

当時、我々夫婦は浦安市のベイサイドに住居を構えていた。近くの婦人科で、診察してもらった時、まだ卵のように丸っとしていただけ(多分、胎芽で、すぐにおめでとうございますと言われた。プリっとしてとても存在感がある様子は、生命力に満ち溢れる現在20歳の彼女にもつながる)

出産する病院は決めていた。おばが36歳で出産した日赤医療センターだ。義理の両親の家に近く、後に我々もその土地に住むことになったので、良い判断だったと思う。

ギリギリまで浦安で妊婦検診をし、日赤医療センターに転院。母親学級やマタニティヨガに精を出す。

当時は太るのは厳禁で、産道に脂肪がつくと良くないと脅されていた。しかし、通算で増えたウエイトは4キロ。食欲もあまりなかったので、苦労はしていない。しかし、後にもっと増やせば良かったと後悔することになる。

産休に入ってからは、良く歩いて遊んだ。夏休みには、車で伊豆1周旅行もしたし、浦安市民の特権でディズニーシーのプレオープンを満喫した。舞浜で、あえて遅い時間に映画を観た。千と千尋の神隠し、ダンサーインザダーク(救われない主人公が、ギロチンにかけられて号泣。揺れる画面に酔い、キャラメルポップコーンの匂いが苦手に)。

そして出産がせまったある夜、ニュースステーションを観ながら夕食中のこと、突然画面がNYの貿易センタービルの様子に切り替わる。そして、目の前で飛行機が突っ込む。テロだ。ペンタゴンにも飛行機が突っ込んだ。私はしばらく同時多発テロ事件のニュースに夢中になった。

その翌日の水曜日の検診でドクターは、「近いうちに生まれるかもしれませんね。」と一言。えっ予定日まで2週間近くありますけど。

そして木曜の夜、お腹が痛み始めて、これは陣痛かもしれないと、入院しようかどうしようかと逡巡する。夫は一緒に行こうと言ったくせに、明け方になると会社へ行くとのこと。

仕方なく私は朝6時に入院の荷物を持ち、駅まで徒歩13分を歩き、京葉線にのって東京駅まで行き、タクシーで病院に行った。

陣痛室という部屋で待機。義理の両親は、松本へサイトウ・キネン・オーケストラを聴きに行っており不在。義理の妹がかけつけてくれる。(実は彼女も妊娠していて、翌年同じ学年の女の子を出産した。のちにふたりは中高と同じ学校で過ごす。彼女は、困っている時に力になってくれるという素晴らしい人、夫と結婚して良かった心から思える。

初産あるある。日中は、陣痛がぱたりと止んでしまった。仕方なく階段を上がり下がりして運動する。翌日の敬老の日を祝うためか、菊の花の炊き込みご飯などが出る。とても美味しく元気が出た。

日赤医療センターは、バースプランを予め設定する等、母親の要望を取り入れてくれて、それは母子の安全が確保されていれば、遂行が可能。

檜風呂も用意されていたので、入浴し体を温める。これが良かったのが、収まっていた陣痛が戻ってくる。

噂に聞いていた鼻からスイカは、本当でしたね。「もう出産をやめたい。ここから飛び降りてすべてを終わらせたい」など母親になるヤツだとは思えないほどの暴言(もちろん、心の中で)。

結局深夜12時から朝の6時までたっぷり陣痛に苦しむ。

当時の日赤医療センターの、出産はキリストの張り付けのような、これベッド? というような台で行われた。

最後、いきんでドッパーンという羊水とともに、無事長女が生まれてきた。なお、夫は怖気づいてしまい、実家に帰宅していた。でもそれからの方が陣痛が進んだので結果オーライ!

気になっていた胎盤を見せてもらう。さすが予定日よりかなり前に生まれただけあって、たいそう立派な胎盤だった。なお、プラセンタ自家摂取はしないことに。

若干ふやけ気味のわが子は、なんともいえない潮の香り。いつまでも嗅いでいたいような、神秘的な香りでした。

以上、長女の出産話でした。

#出産

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?