牛肉食べくらべ
これからホテルでセックスする予定の男と半生の牛肉を食べるだなんて我ながら直接的だな、とサクラは自嘲した。初めて会う男だった。顔写真は送ってもらっていたが、よく撮れた、なおかつもっと若いときのものだったのだろう。全然違うじゃん、とは言わなかった。自分なんて写真も送ってないのだから、それを責める資格はない。そう思った。
この男と会うことにしたのは、ただ単にアプリでのやりとりが全く苦でなかったからだ。適度にサクラの自己肯定感を上げてくれ、適度に嫉妬をし、絶対に個人情報までは踏み込んでこない。自分の生活を脅かしてくるような男はごめんだった。ほどよく自分のことが好きで、この逢瀬にほどほどに酔ってくれるような男が良かった。
「はい、あーん」
男から差し出された肉をちゃんと適度に恥じらってから食べる自分に主演女優賞をあげたかった。他人から見たら私たちはさぞ頭のネジの緩んだ中年カップルに見えているのだろう。
「いっぱい食べなよ」
「うん! あ、でもいっぱい食べたら……あとでちょっと恥ずかしいかも」
すでにオマエラがやってることが恥ずかしいよ、という内面の声は無視した。男は、そうだね、と意味ありげにニヤついている。
しっかりデザートまで食べて、お手洗いに行ってくるね、と席を立った。男はそんな短い時間も名残惜しいとでもいうように、すれ違いざま、少しだけサクラの指に自分の指を絡ませ、サクラは妖艶な流し目でそれに応じる。
化粧室の鏡の前に立ったサクラは、少しだけ震える手で慎重にリップを塗り直した。色番のところに「3・SAKURA」と書かれたリップは夫が「君の名前の口紅があったから」と、誕生日に買ってきたものだった。
バカなひと。普段デパートのコスメコーナーなんて寄りつかないのに、私の名前の口紅があるなんて、どうして知ってるの。黄味肌の私に、この青みピンクは似合わないのに。
バカなひと。私は今から、この口紅でおめかしをして、あなたじゃない男に抱かれてきます。
了
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