できたてのポン・デ・リング
生まれたときから今まで両親が仲が良かった覚えがない。それでも両方からそれなりに愛情をもらって育った手応えがある。
小さな頃、結構派手に転んで膝をすりむいたとき、父は傷口を洗ってくれて、自分がハマっている新興宗教のペンダントをくれた。そのペンダントには確か円形の金属板からはみ出るようにRの右はらいがはみ出ていて、そこで傷口を撫でるようにするといいよと教えてもらった。そうなんだ、と思って撫でたら少し痛かった。
うちで新興宗教にハマっていたのは父だけだった。新興宗教布教のための漫画、戦国魔神ゴーショーグンのビデオ、ウルトラマン系の特撮のビデオ(これはあまり好みではなかった)、ファミコン(スーパーファミコンはなかった)、プレイステーション、その色んなソフト。父がくれたものはたくさんあった。鉄拳チンミという漫画は膝の上で音読してくれた(漫画の音読がとても面倒くさいことは自分に子どもができて分かった)。耳の聞こえない友達のしゃべり真似がめちゃくちゃ上手にできて披露したときは「それは絶対やってはだめだ」と優しく教えられたし、夏休み最終日に工作に全く手をつけてなかったときは、ほとんどやってくれた。
小学校低学年の頃、だったと思う。ある日父が魚の形の風船を買ってきた。銀色のペラペラした素材の風船に魚の模様がプリントされていて、ガスを注入すると家の中を漂って一緒に暮らしている気分になれる、といったおもちゃだった。
うちでは主に母の方針により、ペットを飼うことができなかった。祖父が米を合鴨農法で育てていたため、毎年春には合鴨の雛が大量に来る。そこで動物との触れ合いはあったけれど、ペットを飼ってみたい気持ちは消えなかったので、弟とめちゃくちゃ喜んだことを覚えている。
ペットと言えば散歩だろうと、風船を家の中から連れ出した。風船は、弟と私のどっちが持っていたのだろう。とにかく紐が手の中からすりぬけて、気づいたときには遅かった。父がすぐに踏み台を持ってきてジャンプしても、もう届かなかった。風船の魚は、空を気持ちよさそうに泳いで、どこかへ行ってしまった。私と弟はそれをずっと見ていた。
故郷の空を思うとき、私の頭に浮かぶのはあの風船が飛んでいったときの空と、高校から見える夕焼け空だ。青と橙のコントラスト、そこから色が変わっていく様がなんとも言えないくらいきれいだった。高校のときの好きな人も同じ空が好きらしいと誰かから聞いて、その人のことも夕焼け空も、もっと好きになった。
高校を卒業すると、浪人でもしないかぎり、だいたい皆故郷を出ることが決まっている。田舎すぎて大学も専門学校も通える距離にないのだ。
志望校を決めるとき、漠然と四国からは出たいな、と思っていた。偏差値と、自分の気分がしっくりくる京都の大学を選んだ。家族の誰も、私が四国から出るのを止めなかった。
◯◯さんとこの△△ちゃんはどこそこに行ってこうこうで―祖父祖母は邪気なくそういう話をした。田舎特有の情報網に私の進学先もきっと含まれていて、でもそれはもう聞かなくてすむのだと思うと清々しかった。
少し、時間が前後する。
小学校四年生のとき、母が母屋を壊して新しく家を建てた。曾祖父と曾祖母が前の年に立て続けに亡くなったことがきっかけになったのかもしれない。私たちが住んでいた離れに祖父母が移動して新しい家に両親と私と弟が暮らすことになった。家は、母が一人でお金を出して建てた。祖父母は母のすることに文句一つ言わなかった(後で知ったが祖父は離れのトイレにウォシュレットをつけてくれ、とだけ頼んだらしい)。
母が建てた家は私と弟のための家だった。お金ができるのを待っていたら子ども達が新しい家で暮らす期間が短くなるから、と、母はローンを組むことを決めた。
母は私が、この家に戻ってくるとは少しも思っていなかった。
私が京都に夜行列車で発つ日、父が駅まで車で送ってくれた。
「できたてのポン・デ・リングはレベルが違う美味しさらしいぞ」
と言ってポン・デ・リングを持たせてくれた。
そのときのポン・デ・リングができたてだったかどうかは今ひとつ覚えていない。 覚えているのは、その後に乗った列車が夕陽を背にして走っていたこと。
私はロマンチストな文学少女だったので、
(夕陽から逃げるみたいに、わたしはここを出ていくんだな)
と思って泣いた。
多分だけど、母も家で泣いていたのだと思う。「いってらっしゃい」も言わずに部屋にこもっていたから。
二〇二三年現在、父はお風呂以外のほとんどを離れで過ごしている。新しかった家に寝起きしているのは母だけになった。両親は金土日だけ、母が作る夜ご飯を、新しかった家で二人一緒に食べているようだ。
そして私は京都の田舎にある小さな風通しのいい一軒家でこれを書いています。
了
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