【名前のない店】第4話:選ばれし者の証
——暗闇。
意識はある。だが、体の感覚がない。
重力もなければ、温度もない。ただ、深淵の中に沈み込んでいるような感覚だけがあった。
(……ここはどこだ?)
思考しようとするが、まるで霧の中にいるように頭が働かない。
しかし、その静寂を切り裂くように、声が響いた。
「——受け入れるか?」
低く、重い声。
それがどこから聞こえるのかもわからない。だが、問いかけられているのは確かだった。
「受け入れる……?」
蘭は反射的に呟いた。
その瞬間——
ズンッ!!
何かが、頭の中に直接流れ込んできた。
それは、映像。
◆
——広がるのは、一つの「街」。
だが、それは蘭の知る街ではなかった。
どこか違う。
時間が止まったような、不自然な静寂。
風は吹かず、空は不気味な灰色に染まっている。
道を歩く人々の姿はなく、街はまるで「作り物」のように静まり返っていた。
しかし、唯一動いているものがあった。
影。
街のあちこちに張り付くようにして存在する、黒い霧のようなもの。
それが、不気味にうごめいている。
そして——
その中心に、「あの店」があった。
◆
——カランッ。
扉の開く音。
蘭は、見覚えのある店の中に立っていた。
昨日訪れたはずの、あの無名の店。
しかし、店内は昨日とは違っていた。
棚には何も置かれていない。カウンターには本もない。
あるのは——
巨大な鏡 だけだった。
鏡は床から天井まで届くほどの巨大なものだったが、不思議と違和感はなかった。
むしろ、それがここにあることが当然であるかのような感覚さえする。
蘭は、ゆっくりと鏡の前に立つ。
そこに映るのは、自分の姿——
だが、何かが違う。
背後に——
“何か”が映っている。
黒い影。
あの異世界で見た、黒霧に包まれた存在。
影は鏡の向こうから蘭を見つめ、そして囁く。
「お前はすでに選ばれた。」
——選ばれた? 何に?
蘭の頭に、昨日の記憶が蘇る。
突然現れた店、無名の本、不気味な言葉、そして——
昨日の店とは違う、扉の向こうに広がっていた異質な世界。
あの時、蘭は**「扉の先へ進むことを選んだ」**。
そして今、また同じように「選択」を迫られている。
鏡の中の影がゆっくりと手を伸ばす。
それは、こちらへと誘うように。
蘭の胸の奥に、説明のつかない感情が渦巻く。
恐怖、疑問、好奇心——そして、確信。
「触れれば、すべてが変わる。」
それがわかる。
選べ。
選ぶのは、自分自身だ。
蘭は、深く息を吸い込んだ。
そして——
手を、伸ばした。
◆
——ザワッ……!
鏡の表面に触れた瞬間、世界が震えた。
それは水面のように波紋を広げ、蘭の手を包み込んでいく。
「……っ!」
引き込まれる——!
蘭は咄嗟に後ろへ引こうとした。
だが遅い。
鏡が一瞬にして黒い霧へと変わり、蘭の体を呑み込んだ。
そして——
——ズシャアアアアアアアアアア!!!!
視界が真っ暗になった。
◆
——気がつくと、蘭は地面に横たわっていた。
目の前には、見知らぬ空が広がっている。
黒く、どこまでも広がる虚無の空。
まるで、世界の果てにいるような感覚。
「……ここは……?」
蘭はゆっくりと起き上がる。
そこに広がっていたのは、見たことのない風景だった。
灰色の大地。
無数にそびえ立つ巨大な塔。
どこからか聞こえてくる、人の声のようなもの。
しかし、それは「会話」ではない。
悲鳴、嘆き、ささやき——
無数の「声」が入り混じり、蘭の耳にまとわりつく。
その時——
目の前に、ひとつの存在が立っていた。
それは、鏡の中で見た黒い影とは違う。
黒いローブをまとい、顔を深くフードで隠した者。
ゆっくりと、そいつが口を開く。
「お前は、新たな“観測者”となる。」
——観測者?
蘭が問いかけようとした瞬間、そいつが手を伸ばした。
次の瞬間——
——世界がひっくり返った。
◆
(次回予告)
「蘭に課せられた“観測者”の役割とは?」
「この世界の正体とは?」
「『名前のない店』の本当の目的とは?」
次回、物語はさらなる深淵へ——
「第5話:鏡の向こう側」
蘭は、自らの選択の意味を知ることになる。