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連珠世界選手権記・14 神谷君の一番長い日

AT7日目、最終日。12人総当たりの最後の11Rが行われる。日本勢はここまで好調で、10R終了時点で2位神谷、同率3位中山、6位小山、7位岡部となっていた。7位までに入賞した人数は、次回のAT国別出場枠となる。日本は既に最大の3枠を確定させていた。

2位の神谷は最終局、1位のCao Dong(中国)とで1点差。倒せば勝ち点が並び、ブレイクポイント差で上回れば優勝の目がある。AT史上でも珍しい直接対決だった。

何年も何年も努力し、夢描いていた世界チャンピオンになる。そんなことが現実になったら一体どうなってしまうのか。わたしには想像もつかなかった。それよりもまず、世界チャンピオンになるかもしれない朝を迎えるというのは、どんな気持ちなのか想像もつかない。

なのでいつもと同じように過ごした。朝食はパンやハム、チーズを私が準備し、神谷がフリーズドライの味噌汁を作り、中山がおいしいおいしいと食べる、それが日々の担当だった。この日も神谷は味噌汁を作った。神谷君の味噌汁は、本当にいつも美味しかった。

神谷は緊張したそぶりを最後まで見せなかった。リフトを操作しながら、「新郎新婦、メダルへの階段を登ります」と冗談を飛ばしていた。ここにいた連珠棋士誰もが、対局中恐ろしいほどの集中を見せるかわりに、普段は穏やかで明るかった。

WTを終えた私はこの日観戦に集中していた。全部の対局が興味深く、一手一手予想をしながら見回っていた。どれも、日本勢は大変そうな局面に見えた。中山だけ得意の受けに専念する展開で、きっと大丈夫だと安心していた。

しばらくして中山が時計を止めるのが見えた。私は思わず息を呑んだ。負けたのだ。受けを間違えたのだ。私はしばらくその場で固まり、シャッターを押せなかった。今大会で非情に徹し切れなかったのはこの時だけだった。中山はメダルから後退した。

小山は前チャンピオンのスシュコフと。2017年QTで勝っている相手に、小山流と呼ばれる得意形で挑んだ。一発入れば神谷中山を大きく後押しできたのだが、序盤で未知の好手をひねり出され屈した。

岡部はここまでいくつもピンチを凌いでいた。相手が追い詰めを逃したことも何回もあった。本局も梅凡(中国)に寄せがありそうだ。だが梅凡は攻め切れず、岡部に時計が切れたことを指摘された。

神谷のところはよくわからなかった。いつもの通り神谷は序盤から湯水のように時間を注いでいた。相手のCaoも長考派だ。神谷よりも先に時間が無くなっていった。

岡部戦で勝ちを逃した神谷に、中山は「終盤時間が残るように何分まで使うと予め決めて残しておく方がいい」とアドバイスしていた。神谷は15分まで使うことに決めていた。しかし本局はもう、そんな余裕はなかった。気がつくと時計は一桁を示していた。

Caoも残り時間を使い果たし、両者フィッシャーで加算される30秒が頼りの終盤戦となった。黒のCaoが切れそうで切れない攻めを繋げ、白の神谷が凌げるかどうかだった。周囲は対局が終わった選手で人だかりとなっていた。

これは窓側から撮った最終盤の写真である。神谷は懸命に凌いでいた。トレードマークである、着手直前に珠笥に手で蓋をする仕草を見せながら。(一手のミスが命取りになる連珠では、手拍子で打つのを防ぐ為に珠笥の蓋を着手直前まで閉めていたり、こうして手で蓋をして最終確認するのだ)

形勢を聞きに一旦離れた。「凌げるかもしれない、黒の寄せがはっきりわからない」と誰かが言った。熱戦だった。戻ると、廊下で中国選手が抱き合い、集まっていた観戦者が散り散りになっていくのが見えた。

神谷の手は震え、目は真っ赤だった。初めて見る神谷の泣き顔だった。意を決して一回だけシャッターを押したが、これ以上レンズを回してフォーカスを当てる気にはならなかった。私は神谷がこれまでしてきた努力がどれだけのものなのか、一万分の一もわかっていないからだ。

Cao Dong金、スシュコフ銀、神谷の銅が決まった。

神谷は暫くその場からも検討している仲間たちからも離れ姿を消していた。その頃、まだ続いていた対局があった。井上-エピファノフ戦だ。他局の結果により井上12位、エピファノフ11位が確定している。つまり、どうなってもこれ以上順位が動くことはない対局だった。

15路の盤を全部埋め尽くす勢いで2人は石を置いていた。通常なら5つ石が並ぶスペースが無く、満局にする盤面だ。しかしエピファノフに止める気配は微塵もなく、井上は絶対に頓死しないという気迫を込めて打ち返していた。

将棋に例えれば相手がうっかりして大駒を取れれば点数勝ちになる、ただそれだけのミスを待つような持将棋模様の局面だった。繰り返すが、エピファノフは満局になり0.5勝しか取れなくても、既に2ポイント差を付けてる井上との順位が逆転することはない。

エピファノフの最後の姿が、何を意味するのか。もはや棋理ではない。「これが、世界選手権だ」としか言いようがない。

今大会何度も頓死した井上は、死闘の末満局をもぎ取った。最後にエピファノフの石を止め続ける井上の姿は、この大会期間中最も頼もしく、最も輝いて見えた。



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