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大切な時間をPIECESで

PIECESにこの春ジョインしました、いずもりです。
事務局長から「PIECESにジョインした経緯、PIECESと自分の接点をnoteに書いて」と、愛あるパスをいただきました!

さくっと浅い経緯を書くと、

  • 採用説明会で、PIECESのビジョンに共感

  • 長年携わった社会教育現場とファシリテーションの経験を役立てたい

  • 昨年創業した、私設公民館の運営にも役立つ学びが得られると思った

という3点なのですが、今回は
「どうしてPIECESのビジョンに共感するのか」という点を書きます。
自己紹介のひとつとして、過去の原体験にお付き合いくださると幸いです。

私が生まれたのは1970年代。
父、母、祖母、そして父と20歳も年の離れた大正生まれの叔父、の5人家族でした。

叔父は学校に行ったことがありませんでした。
文字の読み書きもできず、友達もいませんでした。

叔父のお世話は、障害という言葉が分からない幼少期からの日常でした。
交差点の真ん中で交通整理のマネをする叔父を見つけて連れ帰ったり、
対応してくれる理髪店が見つからなくて母と3人で探しまわったり。
小さい頃から大きな叔父の手を引いて、近所をよく歩きました。

常に予測の斜め上を行くハプニングが起こる毎日でしたが、
明るい母が、いつも笑いや冗談に変えてくれていました。

叔父が悪気なく持ち帰るお菓子代を駄菓子屋へ払いに行くときも、
「かっこええなぁ。おじちゃんは、お得意さんやからツケ払いやな」と言ったり。
家電のスイッチを気に入って、一日中パチパチして壊してしまうと、
「根気がええなー。家電の耐久テストがあったら雇ってもらえるなぁ」と笑ったり。

心無い暴言や偏見に傷つくことがあっても、畑のあぜ道を通るたびに野菜を持たせてくれるオバチャンなんかもいて。
今思うと、母の明るさと市民性豊かな地域のお陰で、私に悲壮感はありませんでした。

とは言うものの、叔父に家族以外の交流や仕事はなく。
ふと、私の横で新聞をビリビリ破いて遊んでいる大きな人を見ながら、
「おっちゃんは、本当に幸せなのかな。」
と、幼いながらも疑問を抱いて大きくなりました。

明治生まれで保守的な祖母が病床に伏したことで、叔父は初めて公に社会と接点を持つことができました。すでに72歳。
弟(私の父)と同じ白いビジネスシャツを好んで着て、「シゴト、シゴト」と嬉しそうにデイサービスの送迎バスに乗り込んでいました。
そのわずか数年後、ぷつりと切れるように亡くなりました。

私がPIECESのビジョンに惹かれた理由は、
「せっかく生まれた尊い命が、環境や特性によって本来の力を発揮できないまま終わるのを見過ごせない姿勢」に自分を重ね合わせたからかなと感じています。

偶然の時代背景や家庭環境のために、多くの悲しみが放置されている社会。
他人事と思えたら、それまでなのかも知れません。
でも、そうは思えないモヤモヤを、PIECESに集まる人たちはみんな何かしら抱いているのではないでしょうか。

生い立ちの中で味わった、ちょっと苦くて切ない思い出と、少しの悔しさ、憤り。
それをプラスのエネルギーに変えて、誰もが「こういう人生を生きたい」という願いを叶えられる社会が実現できるように。
そのために私の大切な時間を使いたいと、PIECESメンバーになることを決めました。

そして、当時、本当はとても疲れていた私たち親子にさり気なく声をかけて、いつも野菜を持たせてくれる、あのオバチャンみたいな。
ちょっとだけお節介で温かい、人や眼差しに満ちた空間=『優しい間』がたくさん生まれたらいいな。

そんな風に思って。
今日もPIECESのお仕事に励んでいます。

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