ワークショップの最小回路
昨日、ぼくが2016年に書いた、ワークショップのレポート記事を読んでくれた方と話した。(ちなみに内容は、写真についてのインタビュー活動を通じて詩を書く、というものである)。その記事は、その人にとって所々、膝を叩くこともあったそうで、嬉しい感想を聞けた。ぼくは4年前のその記事の内容についてほとんど忘れてしまっていたが。
そして、ともかく、その人に「ワークショップはもうやらないのですか?」と聞かれた。
「やらない」と言って、その後、やってしまうならば、その「やらない」は嘘になる。他方で、「やります」と言って、「よし、作ろう」となるわけでもないし、それで作らなかったら、その「やります」は嘘になる。
「ワークショップをやる」というのは一つの出来事だ。「ワークショップをやること」は目的ではない、それは一つの生の結果に過ぎない。
とはいえ、私は、最近は、ワークショップ的なことをやっていた。
もちろん「ワークショップを作ろう」と思ってやっていたわけではない。確かに、出来上がった活動の総体を自分で見返すと、それは確かに「ワークショップ」と言えるものであった。それも、ぼくにとっての「真のワークショップ」に近いものであった。でも、それを「ワークショップ」と言う必要はないし、正直なところ「ワークショップ」と呼びたくはない。
ワークショップには二つの種類がある。真のワークショップと、そうではないワークショップだ。
一つのワークショップが真であるかのどうかを見極めるための一つの基準がある。以下である。
単なる「楽しかったenjoyed」で終わらず、そのワークショップでの活動が、参加者の日常生活の「仕方manière」−ものの見え方、考え方や自身の感じ方−になんらかの「ずらし」の効果を与え、かつ、参加者が日常生活で咀嚼しきれない、あるいは断続的に回帰するような「意味」ないし「イメージ」を与えること、である。
これがワークショップの「面白さintersting」の核心だと私は考えている。
あらゆるワークショップは、これに近かったり、遠かったりするだけである。この度合いが強かったり、弱かったりするだけである。ワークショップの真偽は、そのワークショップが「身体表現系」であるか、とか「対話系」であるか、とか、そういったカテゴリーとは一切の関係がないのである。
そしてこの規定から必然的に、真のワークショップの活動には、日常生活とは異なる「仕方」が内在していなければならないことになる。
真のワークショップは自らに内在するその「仕方」へと各々の参加者を導く。各々の参加者は、活動を通じて、自らが暗黙理に持ち込んでいる既存の仕方とは別の仕方へと導かれるのであり、同時に、その仕方は各々の参加者に感じられ、伝達されるのである。
そしてここから必然的に、真のワークショップには、「導師」がいなければいけないことになる。
導師とは、ワークショップに内在するその仕方に通ずる者であり、各々の参加者は、活動の中で、導師の「仕方」を真似たり、自分の仕方との差異に気付いたり、しながら、その道voieに導かれる。仕方とは一つの道である。
この意味でワークショップの導師は「道士」でもあり、参加者の「同士」でもある。
導師が「道士」であるのは、導師自身は各々の参加者よりも相対的に、ワークショップに内在するその「仕方−道」に通じているだけであり、導師自身もまたその道の探究者であることには変わりないことに由来する。そしてまた、導師−道士が、その道の探究者である、という意味においては、相対的な違いはあるにせよ、各々の参加者の「同士」であることには変わりないからである。
したがって、とにもかくにも、一つのワークショップは、一つの仕方−道に通じている。いやむしろ、通じていなければ、それは真のワークショップであるにはほど遠く、おそらく、合意形成やらアイデア生成やら、の単なる結果に過ぎないもの価値ある目的として捉えてしまったような「錯覚」に支えられた活動に過ぎず、それはワークショップを「つくる」者の欺瞞に過ぎない。
さて、以上のように、私のワークショップについて考えconceptionを大まかに説明したところで、最初のイメージに戻ろう。
ワークショップ、私が言うところの「真のワークショップ」を「つくる」には、一つの「仕方−道」に通ずる「導師−道士−同士」が絶対に必要である。それは真のワークショップの最小回路である。いかなるカテゴリーの活動であろうと、またその活動の時空的区別、例えば、イントロダクションやら、振り返りやら、ディスカッションセッションやら、そしてまた問い、であってさえも、それらがどう構成されようともと、そういった全ては、小手先のものに過ぎない。
全てが、最小回路の強度にかかっている。
したがって、真のワークショップをつくるには、それをつくるものが一つの「仕方−道」にどれほど通じている「道士」であるかにかかっている。その者が、いかに参加者を導くか、いかに参加者と共に探究するか、という「導師」的側面と「同士」的側面は、その次の話である。
まずは、己がいかにその一つの道を歩んでいるのか、その一点にのみ、そのワークショップが真であるか、の如何がかかっている。
だから、私もこれからも道を歩むだろう。その先々で、時に、自らを開き、共に探究する同士を招きつつ、一つの道へと導くことはあるだろう。しかし、それは予めて決まることではないし、最終的に定まるものでもない。その時機も、場所も、何もかも、すべては道が私に教えてくれることであり、私の意識の知るところではない。
真のワークショップは、そうして発せられるものでなければならない。
私が言いたいのは二点である。
それは、ファシリテーションやデザインなどの技術skillは、真のワークショップの十分条件であるが、その発生の必要条件ではない、ということ、そして、真のワークショップは、万物を産出する自然の運動と一体の運動そのものであり、その意味である種の芸術artでなければならない、ということである。