あまり騒ぎたてるな
微細な痛みや怨恨が漂っていることに無知である者たちほど、それらが一つにまとまり凶行と呼ばれうる行為として発出したとき、その突然さと異様さに騒いでいる。
私の方は、いつもそれを知って、「間に合わなかった」という気持ちになる。そして、その恥辱にまみれつつ、自らの仕事をもって抗うことしかできない。そんなことはそのやっている仕事が、突発的な悪意が現実化されないようにする成果を生み出すと信じているからである。
だから、阿保のように騒いでる者たちが、結局のところなぜそんなに驚いているかというと、それは彼らが夢物語を生きていたからに過ぎない。リアルを見ずに、曇っていて、濁っていて、ぼんやりした、そんな世界を毎日生きていて、世界がそんなわけではないと知らせるようなニュースが届いて驚いている。
そして、その動揺、不安、自分自身が何も見ていなかったんじゃないか、という疑念が即座に生じ、驚いているだけであればまだ謙虚であったのに、「こんなこと起こっちゃいけない」とか「原因はなんだ」とか言って、モラリストの皮をかぶって、自分の無知を隠そうとする。
たちが悪い、そして可哀想な人、そんな人は大勢いる。
この社会が、みな気づいているのにそれを隠そうとし続けてから、もうずいぶん経っただろう。
みんなが特別、みんなが自分の一等賞、と言い始めてもうどれくらい経っただろうか。
大人になれば、今度はなんだ。やれ多様性の肯定だ、差別のない社会だの言い始めてもうどれくらい経っただろうか。
この世界は、彼らにとっては残酷過ぎたのだ。そしてそれを必死に隠そうとしている。
そんなわけなかろうが。歴史に名を残す人、人類にとって計り知れぬ貢献をなす人、そんな人たちは、ほんの一握り、と言えるほどの少なさではない。もっと少ない。まるで大きさを持たない点である。
こう言ったことを話し続けると、やれ「選民思想」だ、と言われ、それが何かも分からないくせに、また騒ぎ立てる者が出てくるだろう。自分のプライドを守るのにそんな必死になって恥ずかしくないのだろうか。
我々はほぼすべての意味で平等ではない。平等であるのは「存在している」という事項ぐらいであって、それ以外は平等ではない。しかしその「存在している」という平等性においては、今度は、人間とその辺のチリやホコリとも我々は対等になってしまう。
存在するものの中で、そして人間という種の中で、ある意味で特異な仕事を成し遂げる者というのは、本当に一握りであり、歴史からすれば、ほぼすべての人間が、何の意味も持たない存在者に過ぎない。
現実というのはそういうものであって、それは彼らにとって残酷であろうがなかろうが、変わらない事実である。
だからいちいち騒ぎ立てるんじゃない。結局のところ、自分の仕事に戻るとき、それを忘れてしまうくせに騒ぎて立てているのならば、おとなしくしていてもらえないだろうか。そして政府に対しては、そんな些末な愚かな者どもの騒ぎに反応せずに、富と権限の流動的再配分を適切に行い続けていることをいつも願い、信じているが、いまだそうなった、と確信できた試しはない。