妹と暮らしているのだが、その2
(これは2016年に書かれたものである)
5月28日23時頃。主催していたイベントを終え、帰宅。妹はいない。
妹には、23時頃に帰る、ということをLINEで伝達済み。家で少し落ち着いていると24時前、妹からLINEの返信が入る。
「家にご飯ある?たべた?」
ない。ぼくはイベント終わりに会食し、そのまま帰って来た。
妹は、どうやらバイトが終わったところのようで、ご飯がない旨を伝えると「おけー」と返事がきた。そのまま帰ってくるようだ。
少しして、家のチャイムが鳴る。妹が帰ってきたようだ。
玄関の鍵を開けて、二人でリビングへ。すると、妹が後ろからこう問うてきた。
「お兄ちゃん、世にも奇妙な物語、録画していないよね?」
録画していない。すっかり忘れていた。2016春の特別編。今日だったのか。
「帰って来るとき、twitterでみんなが実況しているのみて、こんな顔になったよ」
妹は、こんな→(°_°)、顔をする。
「たぶん、もうyoutube上がっているよ。観る?」
そういって、二人で、僕のパソコンから違法アップロードされた動画を探し、二人で観始めた。
2話目が終わったところだろうか(全4話である)。兄はもう眠くて眠くて「もう、続きは今度観ようぜ。それか、自分の部屋で自分のパソコンで観て〜」と言った。(兄はこの日お昼前からずっと主催イベントにつきっきりだったのだ。)
妹は「え〜」と微妙な顔をするが、まぁ、観ることは終えた。
少し時間が経った。ぼくは横になっている。妹も隣で横になっている。
兄は携帯でなにかを調べていたかSNSをみていた。妹も携帯でなにかやっていた。
妹は「うわ、なんか考えていたのに、忘れた!気持ち悪い!世にも奇妙な物語見たからだ、気持ち悪い!」となんだか悶えている。
兄は「因果関係わからんな。つか、思っていたこと忘れたときのリアクションでかいな、妹よ」とぼんやり思いながら携帯をいじっている。
そして、次の瞬間、まさに世にも奇妙なことが起きた。
「え!お兄ちゃん!どうしたの!?」
「え?」
兄は、なぜか無意識のうちに唄を唄っていた。普通のポップソングなら、別に問題にはならない。しかし、兄が唄っていた唄は、両者(兄妹)驚愕の唄だった。
「くるま、ぱらぱら〜♪」
なんともいえないメロディに乗せて、兄は「くるま、ぱらぱら〜♪」と唄っていたのだ。
そして、実はこの前にもいくつか唄っていたらしく、「くるま、ぱらぱら」の前は妹の記憶によると「おにく、よこよこ」だったようだ。
兄は何も覚えていないが、確かに唄っていた感覚は残っている。「おにく、よこよこ」の前にもなにかあったような気がする。しかし、全く思い出せない。妹も「おにく、よこよこ」の前は覚えていない。
二人で「うわ〜!!!なんだ〜!!!」と驚いた。
だが、実におもしろいことだった。ぼくはほぼ無意識に唄っていた。そして、どうやら、この唄にはルールがあるようである。
そのルールは、
①最初の言葉は三文字の単語であること。ex.「おにく」「くるま」など
②最後の言葉は四文字で、二文字の反復で構成されていること。ex.「よこよこ」「ぱらぱら」など。
③最初の言葉と最後の言葉に関連性(意味性)が見いだせないこと。
どうやら、この三つに従いつつ、謎のメロディに乗せて、「三文字、四文字」を言うというのが、この唄のルールのようだ。
全く訳がわからないが、これはおもしろい!と思い、妹に順番を無茶振りする。
妹は少し考えるが、「えーーー!!わかんないーー!!」と悶えている。
兄は「意味を追っちゃダメだ。おれらは意味に馴らされがちだが、”遊ぶ”んだ」とまた、思想を練り込んだことを言って、妹を課題に追い込む。
次の瞬間、妹の口から妹の代表作品が発表された。
「ひじき、むにむに」
兄、爆笑。「ひじき、むにむに」って!!!どういうことだよ!!!笑
兄、夜中1時過ぎに、声をあげて爆笑。
妹、自分の口から出てきた予想だにしない言葉に、ワハハハと笑っている。
そして、この状況自体がさらに笑えてくる。
なにはともあれ、深夜1時過ぎ。われわれは突然はじまったゲームを終え、爆笑しながら、二人で洗面所に行き、歯を磨いて寝た。
さて、世にも奇妙な夜だったが、どうやらこの現象は特異的な現象ではないらしい。
ルイス・キャロルの「アリス・イン・ワンダーランド」の邦訳で知られる「遊び」の研究者高橋康也によると、当時2歳だった彼の娘が突然書斎にやってきて、「イヌ・ニャオニャオ、ネコ・ワンワン」と言ったらしい。彼は、一瞬「わが愛児の大脳に異常ありや」と恐れおののきつつ、あらためて娘の眼を見ると、ちょっといたずらっぽい目つきだったことから、「そうか、これがこの子の最初のことば遊びか」と膝を叩いたそうだ。
これは微笑ましいエピソードであるが、酷似する事例は他にもある。
ロシア系の児童文学作家コルネイ・チューコフスキーの研究書『二歳から五歳まで』よれば、どうやらどこの国の子どもも、二、三歳からこの種のことば遊びを始めるらしい。
チューコフスキーによると、ロシアの子どもたちはもう少し年上になると、
カエルがお空を飛んでった
サカナが漁師の膝に坐ってた
ネズミがネコをつかまえて
ネズミトリのなかにとじこめた
といったノンセンス・ソングに熱中するという。
また、このような「ことば遊び」は子どもに限ったことではなく、三つ子の魂百まで、とはよく言ったものだが、ついには最期の息を引き取るときにさえ、その衝動に身をまかせる者もいる。
石川や浜の真砂は尽くるとも 世にも五右衛門の種は尽きまじ
と洒落のめしながら死んでいったのは我が国の大盗賊である。
おそらく、ぼくらがこの夜、遭遇した局面もそのような動きの只中の一つなのだろう。
ハイデッガーは「存在の本質はゲームそのものにほかならぬ」と書き、「歓喜の歌」の詩人フリードリヒ・フォン・シラーにおいては「人間は、言葉の十分な意味において人間であるときにのみ、遊ぶ。また、人間は、遊ぶときにのみ、完全に人間なのだ。」と書いている。
まぁ、とにもかくにも「遊び」というのは人間にとって本質的なものようだ。
ただ、無意味さだけがおもしろいわけではない。意味があるからこそ、はじめて「無意味さ」がおもしろい。
意味と無意味の狭間で、表現したり、コミュニケーションをしたり、活動することが「遊び」であるならば、やはり、それは理性的動物である人間にとって本質的なのかもしれない。
相変わらず、妹との暮らしはおもしろい。
また、なにかあったら書こうと思う。
喫茶店代か学術書の購入代に変わります。