深夜食堂がおもしろい−事件なきドラマ−

この1、2年、「事件」のない作品を意図的に選んで観るようにしている。
昔から、ドラマも漫画も映画もすぐに「事件」を作りたがる。わかりやすく、煽情的な起承転結を作りたがる。
刺激的ではあるが、現実的ではないし、観ていて疲れる。
他方で、事件のない作品には「何もない」のではなく、「出来事」がある。淡々と事件とは区別される「出来事」と呼べるような何かが描かれている。

最近、ドラマ「深夜食堂」にはまってしまった。
通観していると気になることが出てくる。
ときおり、「そうやって、あなたはいつも私のことを認めてくれない」というセリフが出ることだ。特定の二者間の対立ないし緊張が描かれている。(関係する話を列挙するなら、4、8、9、20、22、26、そして29話だろう。この意味では「深夜食堂」というより、そのオムニバスの個別の脚本家が気になる)

このセリフを少し分析してみる。
「いつも」というからには、その人は以前から、そうした印象を相手に持っていた、と思われる。そして、ここでいう「認めてくれない」というのは、相手側からの「否定」に由来している。
「否定」は、理想状態と今の状態との差分に由来する。
例えば、「こうすればもっとよくなる」という”アドバイス”は理想状態と今の状態の差分に由来する。これと同様に、理想状態が隠されたままに「それはダメだ」となるのが”否定”である。アドバイスであっても、否定であっても、由来するのは、それをする人が前提としている「理想状態」であり、それと今の状態の差分があることに変わりない。
そして、そうした「否定」の対象となるのは、否定される側の人のやっていること、やりたいこと、振る舞いなどの今のその人自身の理念が表現されたものである。

ドラマの中に、こうした「否定」を媒介した二人の人物の「対立」の関係が出てくる。結果的に、その関係は変わっていく。問題は、この「あなたはいつも私を認めてくれない」という二者関係の変化が「ドラマ」というものの中でどのように描かれているのか、である。

29話には特に興味深い構造がある。
それは、上司に対しての部下からの「否定」という立場の弱い方からの「否定」の構造である。それ以外の話では基本的に、「否定」する側が立場の強い。例えば、妹に対する兄、娘に対する母である。

では、この二者関係がどのようにドラマの中で変化していくのか。「対立から共生への移行」はどのようにしてなされるのか。

看過できない機能として「媒介者」の役割がある。
深夜食堂が、面白いのはこの点にある。もっぱらその役割を果たしているのは「食堂」であり、その「マスター」である。どういうことか。

マスターは、対立する二者関係の緊張を見守りながらも、時折「お節介だけどさ」といいながら「媒介者」の役割を果たす。二者間の「対立から共生への変化」を「直接の言葉」あるいは「料理の提供」によって結果的に促してしまう。第8話でのいつも提供している「焼きそば」に「四万十川の青のり」を乗せるシーンはとりわけ印象深い。

「対話」は二者間で進行しているのではない。また、三者というわけでもなく、「場所」や「料理」などを含んだ「媒介者」とともに進行する。

29話の話に戻る。29話では、「否定」している立場の弱い方が、否定している相手を「自分に適した存在ではない」と思っていることが後半で明らかになる。

マスターは、「俺一人のときはいいけど」と言いながら、そうした言動を制する。そして、「お節介」をする「媒介者」の機能を果たし始める。
そのときのマスターの言い方が上手いのは、マスターがその「否定の考え」を「さらに否定する」ということをしない点である。マスターは、ただ「そうした(否定の)考えを持っていることが相手にも伝わっているだろう」ということの指摘にとどまる。

マスターのこの「躊躇いある指摘」によって、指摘された人に何かが起こっていく。沈黙の長い食堂のワンシーン。そのシーンは徐々に暗く、フェードアウトしていく。

シーンが変わる。そこで否定していた人と否定されていた相手との新たな関わり方が出てくる。この出方はとても面白いのだが、それまでにどのような思考の過程があったのか、というところは当然描かれず、結果のみが出来事として出てくる。
そして、「否定されていた」立場の強い側は、「おれのことわかってきたな」と好感を示すに至る。

深夜食堂はおもしろい。
ただ、視聴者の立場。ぼくの立場からして特におもしろいのは、

第一に、事件なき出来事のドラマの中で、ぼくらは、なんらかのキャラクターの立場に感情移入しながら擬似的に、この関係性の扱い方の事例を見ることになりうる、ということだ。他者とは可能世界の表現である。深夜食堂を観る中で、人と人とがどのような共生の仕方を展開していくかを事例として知る。もちろん、ハッピーエンドではないこともある。そのときは、悲哀とその悲哀をともに受け入れていく仕方の事例を知ることになる。

第二に、おもしろいが厄介なのは、ぼくは事件と出来事をどのような差異において区別しているのか、が自分自身でわからない、ということだ。出来事は事件と違って、煽情的ではないが、それでも事件と似たところがあるのは確かだ。しかし、何がその本性において違うのか、がわからない。この定義の問題は、ぼくがこれからもなんらかの物語を楽しむ限り、そして、出来事の作品を選別する限り、頭から離れることのない問題である。

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lspandc
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