一喫茶店でテクストを書くこと
テクストを書くことは、識字率がほぼ100%のこの国ではほとんど誰でもできる。多くの人がメールやらSNSやらで日々テクストを書いていて、この行為自体、なんら不思議なことではない。
それでも、京都にある一喫茶店に関わる人たちだけで、こうしてテクストを書く、ということに至ったことは不思議なことである。
この営みが今後、どこまで続いていくのかはわからないし、いつか終わるとしてもそれはそれでいいと思っている。こうしていま、とりあえずに口火を切るようにして、一つのテクストを書いているが、正直なところ、何を書くべきかもわからないままに、そして私自身の文体も定まらないままに、書いている。ある日、この記事を見て、「あぁ、こんなふうに書いていたんだな」と懐かしむかもしれない。
しかしまぁ、とりあえずのことやってみるとしても、それでもこの営みがそれに参加する個々人に何らかよい影響があればと願ってはいる。私自身としては、あわよくば、テクストを書くことがそれ自体、何らかの創造活動であることを感じてもらえればよい。駄文やその場の思いつきを、送り先から応答があることを前提して、それゆえまたその相手の応答に依存して言ったり書いたりすることとはまた違うような「テクストを書くこと」へ到達し、そして各々が自らのその作法を実践的に身につけることができれば...、これが私にとっていまのところ望ましいことのように思う。
さて、せっかくなのでここでは、私とこの喫茶店との出会いについて書き、それをいわばエントリーとして、いまここでの「テクストを書くこと」を終えることとしよう。
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あれはいつだったか、正確な日を覚えてはいない。いまは無くなってしまった四条通沿のジュンク堂の脇の道、富小路を上っていき、錦市場に入る少し手前にあるビルの前に到着する。「本当にここで合っているのかだろうか」という疑念とともに階段を上り、少し威厳のあるその喫茶店のドアを開ける。店内に入った私は、一番右奥に見える窓際の3人テーブル席の奥側に座った。案内されたのか自分で決めたのか、は覚えていない。ただ、おそらくのこと、店主であろう私と同じ歳ぐらいの長髪の男性に「お好きな席へどうぞ」と言われて、私はそこへ向かったのだろう。
私は、基本的には、煙草を吸いながら、パソコンを開いて作業したいという気持ちで喫茶店に入る。だから、この店が少なくとも禁煙ではなかったことは私にとって好ましいことであった。そしてアイスコーヒーを注文した後、パソコンを開くことが迷惑がられないことを自分の感覚で確認し、パソコンを開くとやはりそうであったので、これだけでもうすでに、私にとってこの店は「よい」店であった。スピノザよろしく、「よい/わるい」とは、私の身体と外部の諸物体の出会いにおける私自身の「活動力の増大/減少」以外の何ものでもない。
思いがけない形でのさらなる「よい」ことであったのは、私の席に灰皿を持ってきてくれて、そしてその後、数分してから、アイスコーヒーを運んできてくれたあの長髪の男性の一連の身振りが、私に「この人と友達になれる」と直感させたことであった。とはいえ、そんなふうには思いながらも、いきなりに彼に対してこちらから働きかけるのは、いささか無粋である。私は「そう焦らず、今日はここでの自分なりの時間を過ごそう」と考えて、2時間ぐらいを過ごした。
帰り際、支払いを済ませて店を出ようとすると、あの長髪の彼が「ありがとうございました、まだどうぞ」というようなことを言ってくれつつも、店を出る私の後についてきてくれ、1階で私が街に出ていくのを見送ってくれた。2時間ほど前に、私が疑念を持ちながら登ってきたあの階段は、帰り際には、また登りたい階段に、そして、あの少し威厳のあるドアは、開けると彼がいるだろう、と自分が期待しているドアに変わっていた。
また来よう。そう思って彼の眼差しを背中に感じながら店を後にした。これが「喫茶百景」との私の最初の出会いであり、それほど日を空けることなく、次会うときには長髪のあの彼と連絡先を交換するに至ることとなる出会いはまた別の話である。
(instagramにこの日の投稿が残っていた、2019年10月7日)