与えられている偶然性の中で−存在論がよくわからない
「結局、歳を取っても、大切にしたいこととかやりたいこととか考えていることとかは一つずっと変わらないものがあるからね」
そういった「変わらないもの」が自分の中に−−それは同時にすべての人に−−ある、ということを、ぼくは割と信じている。
もちろん、外面的な、やっていることや言葉遣いは変わることはあれど、内面的には、ずっと一つのことを追っている、というか、自分を突き動かす一つのものが意志するものに従って、生きていると思っている。それは自分のものではあるけれど、自分が意志しているものではない。そんなラインに乗ることをずっとしているように思う。
そういった、すでに与えられている必然的なものがある、とする。
一方で、偶然的なものもある。
日本にいること、この時代に生きていること、大学に進学することのできる経済的状況にある家庭に生まれたこと、背が176cmであること、髪の毛の色が黒いこと、などなど。
すでに与えられている偶然性は引き受けるしかない。
もちろん、なんで、おれはこの時代の日本に生まれたんだ!?髪の毛の色が黒いんだ!?という疑問に向かって、一生を終えるのも悪くないだろう。
どういうふうに向かっていくのか、わからないけれど、先祖まで遡って、髪の毛の色が黒になってしまう理由、「黒」として色を知覚してしまう理由などさまざまなことを理解し、もしかしたら、その理解した諸々のことによって、誰かを救えるかもしれないし、その最中で自分が救われるかもしれない。
そして、それでその人が一生を終えるのであれば、もしかしたら、それはその人にとって必然的なものであったのだろう。
理由を考えなければ、すべては偶然的なものであり、理由がわかればわかるほど、すべては必然的なものにかわる。となると、世界には必然的なものしかないのかもしれない。それでも、必然的なものを必然的なものとしてわかるには、まず、その理由を探ろうと衝動してしまう、偶然的なものがないといけない。
ところで、ぼくはなんだか、わからないけれど、哲学の勉強をしている。
ドゥルーズという哲学者の哲学、とりわけ、彼のスピノザ解釈について勉強している。23歳ぐらいに、偶然に出会ってしまって、それからずっと頭に引っかかっていて、ついにはそれを勉強することを日々の活動にするところまできてしまった。
最初は偶然の出会いの対象としての、偶然的なものでしかなかった彼らの哲学を、勉強すればするほど、それは自分にとっての必然的なものに変わっていくような感覚がある。
とはいえ、勉強すればするほど、どんどん関心の向きは細かくなっていって、それに伴ってまた必然性を帯びてくるわけだ。終わりがない。
ところで、ぼくはそうした内的衝動の線に従う中で、時折、「自分の位置」を気にかける。
内的衝動の線に従い続けるのは、真剣に生きることを考える上では、それは絶対的なことだけれども、結局肉体の維持は必要なので、そうした生き方によって得られたことをある種「社会に返す」ことで肉体を最低限維持することが必要だ。
そういったときに、結局、自分が得てきたものが「価値」として認められる返し方をしなければいけない。あるいはそう知覚される場所に自分で入っていかないといけない。それは真剣に生きることを考える上では「妥協」かもしれないけれど、真剣に生きる中ですぐ死んでしまっては、真剣に生きることを全うできないような気もするので「建設的なこと」とも考えている。
だから「妥協」ではない。でも、「妥協性」は自覚しているので、真剣に生きることを考える上でのこととの緊張関係を忘れてはいけない。
とにもかくにも、そうした上で、ぼくは「自分の位置」を気にかける。
最近、哲学を勉強していて、思ってきたのだが、ぼくは「存在論」というのがよくわからない。というか、大まかにこんなことを話している、ということは読んでればわかってくることではあるんだけれど、その根本的な関心のモチベーションがわからない。だから、結局のところ何を喋っているのか、がわからないし、自分が存在論について喋るとき、自分が「ノッていない」ことはよく感覚する。
ということで、ぼくはちょっと、存在論のことをやるのは今はやめようと思っていて、ちょっと別の仕方で勉強しなおすことを始めた。
そんなことをやっていると、結局のところ、「哲学ってなんだろう」という疑問が湧いてきた。誰々の哲学が厳密に何を言っているか、とか、ではなくて、哲学って何だろう、ということに疑問が湧いてきた。
というか、ずっと疑問があったんだけれど、結局のところ、そこに関心がある、という感覚がなんとなく強くなってきた。こういうのが「必然性」というものだ。結局右往左往したのだけれど、わかったのは、ほとんど最初からわかっていたのかもしれない、それだった、というやつだ。
ただ、不思議なのは、こういう諸種の活動をする中でわかってくる自分の内的な「必然性」が、外的な「偶然性」とも不可分である、ということだ。
結局のところ、ぼくは哲学の門外漢なのだ。
哲学を若いときからずっとやっていて、その中で生きてきた人は、そこで得たものをそこに返すだろう。こういう人は哲学の門内漢だ。
「カエサルのものはカエサルに」である。
ぼくは、元々哲学の中で生きてきたのではなく、哲学の外、「哲学」という言葉が、1ヶ月活動していて、一回出るか出ないかところで生きてきた。もちろん哲学は運動であるので、言葉が出るかどうかは関係ないんだけれども、とはいえ、その1ヶ月に哲学的な活動があったか、と言われてもやっぱりとっても少ないところだったと思う。
そんなところから、ぼくは哲学にやってきたわけで、哲学の伝統そのものを形成しているとも言って良い「存在論」なんて、そんなすぐにわかることではないのだ。だからといってそれを疎かにしてもいい、ということではないけれど。
そんなことを考えると、ぼくが「哲学ってなんだろう」と思ってしまうのは、必然的なことにも思える。哲学の外から哲学にやってきたのだから、なんだろう、と思うのは、当然だ。
目が覚めたら、よくわからないところにいた、となったときに「ここはどこだろう」「この建物は何だろう」と思ってしまうのと似ている。そして、それを探る中で「自分はなぜここにいるのだろう」ということがわかってきたりする。
だから、ぼくの「哲学ってなんだろう」は、哲学の中にいた人のそれとはちょっと違う。あくまで、哲学の外から哲学の中にやってきた人の「哲学ってなんだろう」だ。
そういう意味では、ぼくはこの疑問の探究で得たものを結局のところ、哲学の外にいる人へ向けて語ることになるだろう。それはそうしたいから、というわけではなく、僕自身の偶然性を通して生ずる必然性の名において、自然とそうしてしまうだろう。
もちろん、哲学の中にいるから頑張るし、頑張っていたつもりだけど、頑張れば頑張るほどどうしようもない、無理さみたいなのも感じてしまうことも嘘ではなくて、それはそれで越えていかないといけないのだけれど、とはいえ、肉体の維持も必要なわけで、そういった諸々諸々もありつつ、ただ妥協はできないので、そういったこと全部、踏まえつつ、それでも今は、もう少し自分は自分なりにやってみてもいいかなぁ、と思っている。