世界を狭くしているのは自分だった~仕事をやめて北海道東川町「人生の学校」へ。一か月の旅路記録~
自分の心に余裕がないとき、他人の幸せを、素直に喜べない。
いつだって自分を正当化したい。
私は間違っていない。彼らがおかしい。
そうやって優劣をつけて、自分を安心させないと、やってられない。
こんなに働いているのに、どうして幸せになれないのか、考えはじめたら手に負えない。
社会人をまっとうしているはずの自分が、働きもせずふらふらしている人間を羨んでしまえば、何かが終わる気がする。
結局、ユートピアだろう。
そうやって、フォルケホイスコーレというものを、どこかで遠ざけてきた。
なんとなく、世間から逃げている人たちの集まりのように見えて、自分がその一人になるのは嫌だったから。
私は、彼らみたいにはならない。
そう言い聞かせて働いてきたつもりだったのに、私の方が詐欺だった。
正味、1年と数か月。そのくらいだった。
新卒で入社した会社を、この夏に辞めた。
他人の生き方を否定しながら、自分の生までなおざりにしてきたのだとしたら。いたずらに虚勢をはって、自らにも無理を強いた結果、あっという間に息切れしていた。
惨めというほかない。
既存のレールから逸脱してしまったことへの動揺と焦燥が、この身を絶え間なく襲い、しばらくはPCを触らずにいられなかった。
とにかく何か予定を入れたい。闇雲にGoogle検索をかけ続けた結果、見つけたのが株式会社Compathだった。
あのフォルケホイスコーレを日本で実践している場所がある。
さんざんシニカルに見ていたくせに、いざ会社を辞めてみると、いっそのこと飛び込んでみたくなる気持ちを無視できなかった。
HPを注意深くスクロールすると、「ミドルコース参加者募集」という見出しがあった。転職と転職の狭間の1ヶ月という余白のタイミングに合わせたコースだという。
図らずも、それは今の自分に理想的なプランだった。
申し込み締め切り日を一日過ぎていたけれど、ダメ元で連絡することを決意し、参加の動機を急いで文章にまとめた。
今になって思えば、一か八かの「賭け」に出たこの瞬間から、私の”脱皮”は静かに始まっていた気がする。
始まりは不快さとともに
8月24日。会社を辞めて一か月が経ったころ。
コロナ感染拡大と、パラリンピック開催のただ中を、羽田空港から旭川空港へと飛び立った。
おっかなびっくり着陸した初めての北海道は、その空気に触れたときから、新たな世界線を予感させた。
昨日までの境界を超えて、得体の知れない可能性が、悠々と待ち受けているようだった。
東京とは違う風の冷たさ、のびやかに続く見晴らし。
空を飛んでしまえば、わずか1時間前後で移動できてしまう文明に感心しつつ、静かな高揚感が増していった。
とはいっても、私はおそらく、他人より不信感が強い人間だから、北海道に来たからといって、すぐに深い呼吸ができるわけではなかった。
東川町でのはじめの1~2週間は、はっきり言って、愉快というにはほど遠い、不快さが勝る日々が続いた。
プログラム初日は、森の名刺づくり。一枚の布の上に、自分を表現する時間から始まった。
参加者同士、このコースで初めて知り合う、全くの赤の他人だというのに。
年齢、出身、所属、肩書き。よくある自己紹介の要件は、ほぼゼロ。
代わりに、森に落ちている木の葉や、枝、大小さまざまな石、ポイ捨てされたゴミたちが、その人の人となりを代弁していく。
(↑ ”紗矢香の「矢」は弓矢の矢”を表現したもの )
その間、参加者の属性はわかったようでわからない。
続く2日目は、森の中をただ彷徨うという時間。
なんとなく気になったものをとりあえず追ってみて、写真に撮る。それだけ。
3日目も、ほぼ同様。滞在施設の周りを、ただ歩く。気になったものを写真に撮る。とはいっても、時間は4時間ほど。スマホは写真撮影以外、使用を控えるというルールのため、ほんとにただ町を歩くことしかしない数時間。
正直、本当に苦痛だった。
退屈かつ無為。そう形容したくなるほど、時間が過ぎるのがあまりに長く感じられた。
目の前の事物に、意識を集中させることができないのだ。
今頃、前職の会社は朝礼を終えた頃だろうか、とか、彼氏と次に会えるのはいつだろうかとか、そういう雑念が頭を離れない。
目的地に向けて移動し、タスクをこなすために時間を使ってきた自分にとっては、これといって目的のない時間をたやすく歓迎できなかった。
同時に、自分は自分が思っている以上に、管理や評価というものに安らぎを得てきたことを知った。わかりやすいものさしや枠がある方が、居心地がいい。優劣をつけないと気が済まない。フォルケのような環境とは対極にある価値観にこだわってきたのが自分だった。
他の参加者よりどこか異端であることを自覚していたから、自らを解放させるまでには時間を要した。
写真の町といわれる東川町で、一眼レフを片手に、公園や道路、角を曲がった先にあるベンチをカメラにおさめる時も、パーマカルチャーを実践するアメリカ人の家庭菜園に訪れて、収穫した野菜を調理する時も、私は他の誰かと比べては無駄に落ち込んでいた。
あの人の写真のほうが被写体がきれいに見える。
みんなリスニングできているのに、自分は聞き取れていない。
料理に手慣れていない自分を負い目に感じてしまう。
楽になるどころか、自己嫌悪を強める日々は、想定外だった。
こんなネガティブなことを考えるためにここに来たわけじゃないのに。
期待していたような時間が過ごせていない自分に苛立った。
「ぶっちゃけ」なければわからない
変化の端緒が見え始めたのは、プログラムも折り返しにさしかかった頃だった。
NVC(Nonviolent Communication)、非暴力コミュニケーションと呼ばれる体験ワークの中で、参加者の一人が、それまでの遠慮がちな空気を断ち切るように、切り出した。
なんとなく場の雰囲気を察して言わなかったけど、ぶっちゃけ、思っていたことがある。
そう言った彼女は、どちらかというと物事を白黒つけたいタイプで、私と似ていた。
「整った人から」、そのときの感情をシェアしあうチェックインや、チェックアウトの時間の沈黙が、重く感じる。
各々にゆだねられた時間のはずが、実は気を遣いあって、内心感じている違和感を言葉にできていないのではないか?もっとお互いに思っていることを言葉にした方がよくないか?
率直な問いかけに、その場にいた全員が気づかされた瞬間だった。
”マイペースを大事に過ごそう”
”感じていることを率直に場に出してみよう”
初日に共有されたグランドルールは、実質、形骸化していた。
気を遣って、相手のことを察して、わきまえたりして、なんだかんだみんな、遠慮していたのかもしれない。
その日は寝るギリギリまで、彼女を筆頭に、お互い腹をわって話す時間をもった。
しょうもない些細な実感も、言葉にするのを諦めた感情も、できるだけシェアした。もちろん、話すことにためらいを感じる人もいたし、特別それまでの空気に違和感をもってない人もいたから、話したいと思った人は話した。
私は後者だったから、それまで閉ざしていた口を思い切りあけることができて、だいぶ気が楽になった。
正直な感情を吐露することを待ちわびていたのは、自分だけではない。
そう知れただけでも、前週までとは何かが変わった気がした。
少しずつ、心のチャックが開かれる
この日以降、独りでに悶々と感じていた違和感を、誰かに共有することが増えていった。
共用キッチンがあるコモンスペースで、皆で自炊しながら、合間に言葉を交わす。
たわいもない会話から、シビアかつマニアックな議論まで、話は尽きない。
そうして、できあがった大量の餃子やお好み焼きをほおばって、また喋る。
気づいたら、私はこの時間が一番のお気に入りになっていた。
たとえ料理が下手でも、みんなで作れば、あっというまにおいしいご飯ができる。人数が多い分、食費もうく。思う存分平らげて、幸福な満腹感に満たされる。
数週間前まではあんなによそよそしく、気を張っていた自分が、食卓を囲む面々に、ここまで打ち解けていることが信じられなかった。彼らが、心を許せる仲間になりつつあった。
コロナ禍の就職で、歓迎会も忘年会も何もなく、退職するまでほぼ一人でテレワークをしてきた自分は、相当孤独だったのかもしれない。
同期もいない中、わけもわからず3か月で昇進を告げられ、社内にロールモデルも見つからないまま、頼られ任され、期待に応えようとやせ我慢を続け、孤独を極めた結果、破綻した。
ウイルスに感染して死ぬ人間よりも、自殺による死者の方が多いことを、私たちは看過してはいけない。
2人1組で旭川の木材を使用した椅子を製作したり、世界に一つしかない、自分だけの木のスプーンを削って作ったり、その後のワークも、会社に務める社会人であれば、ほとんど行うはずのない体験にあふれていた。自分一人ではできないことも、誰かと手を携えれば完成する。当たり前かもしれない、でも前職では実感することのない共同作業に学ぶことは多かった。
ミドルコースで過ごす時間は、私の力んだ心身を、少しずつ確実にほぐしていった。
欠点を指摘され、泣きじゃくった夜
しかし、プログラムの終わりも見えてきた頃、私は思いもよらない場面で涙することになった。
東川町で農業を営む方にお話を聞く会でのこと。
若い頃は環境活動家として原発反対運動などにも身を投じていたという経歴を伺い、気候変動の活動を推進してきた自分は、前のめりにその方に質問をぶつけていた。
正直、今回の参加者はあまりそういった話題に関心がなく、もう少し気楽になったら?と言われたこともあって、自分の問題意識をこの人となら共有できるのではないかという思いが募っていた。
深刻化する問題に対して、焦りや怒りをもつことは、おかしいことなのか?
人間はそんなに簡単に変わらない。時間をかけなければ物事は変わらないことはわかっている。でも、あと10年が勝負と言われる中で、システムチェンジを起こさなければ、自分たち人間が生きられなくなってしまう。
私たちの世代は、これまでの時代のように、ゆっくり時間をかけて変化をもたらす余裕は残されていない。不完全でも未熟でも変化を起こすこと、それは中央の都市こそ必要なことではないか?
こんなことをつらつらと話し、言葉を重ねれば重ねるほど、熱が入っていく自分を感じながら、語り始めると止まらなかった。
すると、農家の方と共に、講師として同席されていたコンサルティング会社の社長さんが、見かねた様子で言った。
「伝え方を間違えると、味方になってくれるはずの人を敵に回してしまいます」
プライドなのか何なのか、それでも抵抗するように自分の見解を続けたが、鋭い一言に口を閉ざされた。
「感情をもっていることは大事ですが、感情的になったところで人は動きません」
蜂の一刺しのように冷静な言葉が胸に突き刺さり、図星すぎてあまりにショックで、しばらく放心状態になってしまった。
そのあとのチェックアウトでも、さらにきつい指摘を受けた。
会の直後は素直に受け止められず、言われた言葉に対して「またかと思った」と吐露してしまった。
しかし、その言葉を聞いたCompathの方から、「ぴぃ助(私)も大人を諦めているんじゃない?」「人に対して線を引くのが早いのかなと思う」と率直に切り返された。
ただでさえ突き刺さっていた短剣がさらに胸に食い込むような痛みに、弛緩していた感情が一気に溢れ出してしまい、涙がこらえられなくなった。
その夜は、もう悔しくて誰とも顔を合わせたくなくて、部屋に引きこもって泣きじゃくった。
夜ご飯も食べずにそのままふて寝するつもりでいたが、22時に空腹で目が覚めてしまった。部屋の外からみんなの楽しそうな笑い声が聞こえてきて、いたたまれない気持ちに蓋をできず、充血した目と泣き腫らした面を下げて、コモンスペースに向かった。
いつもと変わりなく、みんなは夕食後の談笑に興じていた。
「おーぴぃちゃん、大丈夫?ご飯あるよ!」
私の分のご飯が、ラップをかけてテーブルに置かれていて、自分の幼稚さを呪った。
例の指摘をくれたコンサル社長は、すっかりお酒で酔っぱらっていて、泣いてた自分が情けなく思えたが、「線を引くのが早い」と言われたことを思い出し、なるべく相手を決めつけないよう努めながら、話をしてみた。相手は焦点の定まらない目をしていて、数時間前の固い印象とは異なっていたから、いろんな意味で、肩の力を抜いて言葉を交わすことができた。泣いてたことを茶化されて、少し腹が立ったけれど。
翌日、東京に戻られる前に、もう一度話をさせてもらった。前職のことから、今後のキャリアを含めて、時間が許すまで相談にのってもらえた。ふて寝をして、自分の部屋を出ていなかったら、そんな時間は訪れなかったかもしれない。
ミドルコースで気づいた私の”豊かさ”
そんなこんなで笑いあり涙ありの1か月は、あっという間に最終日を迎えた。
参加者の一人から最後の締めにふさわしい、いくつかの質問が投げかけられ、それぞれが真剣に考えた。
「ミドルコースで気づいた自分にとっての豊かさとは?」
私は、「独占よりも分かち合い」と答えた。
プライドや意地や執着が強い愚かな自分は、他人と競って優位に立つことが生きる上でのモチベーションだった。受験とか就活とか、そもそも日本のシステムでは、他より秀でない限り、その先にあるものを享受できない。
だから競争を自明なものとして、むしろ素直に闘ってきたつもりだったけれど、社会人にでもなってくると、そんなやり方がいかに短命で際限がないものか、思い知らされる。
ミドルコースでも、他人と比較してばかりいる自分は何も幸せではなかった。
心の趣が変わったのは、自分の不足を思いがけず、その場にいる誰かに補ってもらった場面だ。
椅子づくりにしても、料理にしても、ふて寝から戻った時も、手を貸してくれた人はみな、私よりも勝りたいからとか、そんな損得勘定なく、あくまでニュートラルだった。
飾らない優しさに触れて、気づけば独りでいるより、隣りに誰かの存在を感じていたくなっていた。
一方で、自分はどうして必要以上に相対評価をしてしまうのか、生い立ちを辿っていったとき、それは日本の教育や社会の要請に行儀良く応えようとした結果、強く刷り込まれてきたものでもあると思った。そうであるならば、自らそのレールを逸脱し、独り勝ちすることよりも他者との相互扶助の中で分かち合う日々を生きることは、自らの選択によって可能になるはずだ。
とはいえ、さんざん馴染んできたものを手放すことは容易ではない。きっとこれからも行きつ戻りつを繰り返すだろう。
そして、「あなたにとってcompathとは?」。
私の答えは、
「決めつけをほどいてくれる。こんな可能性・世界もあるかもしれないことを気づかせてくれる」場所だ。
私が熱心に気候危機の話をする傍ら、いつものんびり構えていたハウスマスターのCompathインターン生は、インナーサステナビリティという言葉を度々口にした。
正義感に翻弄されるあまり、彼女も自分を追い詰めた時期があったという。転機となったのは、本場デンマークのフォルケで、現地の先生から聞いた先の言葉。
持続可能性が流行のように語られる時代で、月並みなようだけど、自分がご機嫌でいることが一番だと気づいたという話は、ミドルコース中ずっと私の心に沈殿していた。
意地をはって、傷つくのを恐れバリアを張っていた時間が長かった。けれど、強がっていてもあまりいいことはない。そうやって、世界を狭くしている主体に気づいたとき、生きにくくしているのは他でもない自分で、自分が思うより、嫌な人って実はそんなにいないのではないかと思えてきた。第一印象でなんとなくこの人は合わないと思い込み、「線を引いて」きたけれど、あの涙があってから、他者に、そして自分に寛容になれた。
自分の可能性も、他者の存在も、見限ってしまうのは時期尚早かもしれない。
名誉や権威に踊らされそうになったとき、一度立ち止まって、自分の心地よさを起点にしてみる。そんな生き方が、私にもできるんだと信じれる、手がかりをもらった。
ここに来るまで、やめることを、休むことを、立ち止まることを、何かを諦め逃げることと同義だと思っていた。だからフォルケを見くびっていた。でも、ミドルコースの場に集っていたみんなは、決して軽んじられる対象ではなかった。むしろ、これだけ惰性の強い社会で、他者の要請ではなく自らの実感に忠実に選択を行える、したたかでしなやかな人たちだった。
そもそも、諦めることも逃げることも、否定されるべきものではない。
本場のフォルケがどうなのかはわからない。けれど少なくとも、自分が過ごした一か月は間違いなくユートピアではなく、生々しい苦悩と葛藤を抱えた者たちの、現実に根差した尊い時間の塊であった。