好きにさせてやれよ
むやみに生き物を殺すのは意味のないことだ。しかし動物も植物も人間も他者を殺さないと生きてはゆけない、そしてそれを人間だけが選ぶことはできないと思っている。だからこそ一部の菜食主義やヴィーガンの人々をご都合主義者のように感じてしまうし、フルータリアンに至ってはただの理想の楽園に住む人々くらいに思っている。菜食主義者界隈の、動物の権利も人間のものと同等で素晴らしい、とかそういうのを聞くと、単細胞生物までも含め平等で理想な世界をつくりたいのだろうなと思ってしまう。野菜だって草だって果物だって生き物だ、果実がいつか落ちるとするならば、それは命の源ではないのか。選べない。だとするとウイルスはどうなるのだろう、どこで線引をするのだろうか、とかね。また宗教の食物禁忌にも同様なことを思ってしまう。だが前者との違いは押しつけの問題だろうか、菜食主義の人の中には活動家もいて啓蒙があるのだが、それが過激化して他者への押しつけになっている場合もある。宗教の場合は宗教内でも厳しい戒律はあるかもしれないが、食物禁忌では他宗教に押し付けてはないという印象。また宗教戦争や宗教弾圧がかつてあったことも知っているし、今でも一部にはあるのだろう、しかしそれはこの話には重要ではない。動植物を食すことに禁忌のような感覚、感情が生まれる可能性があるという現実は私にも分かる、宗教のことは教祖による経典からとか分からなくもない、しかし菜食主義の人達がなぜ他の人達に過激になってまで訴える人が多いのか、ただのメディアのバイアスなのか。好きにさせてやれよと思ってしまう。
例えば、害獣というものを知らず、いや、知っていてもそれは動物の権利を知らぬ人間のせいと簡単に結論づけてしまう。そんな活動やアナウンスを聞いていると人間が罪人という前提にしたいんだなと思うしかない。例えば人間は農業をして作物を育てている、できる限り手をかけて自然のものよりもいいものを作りたい、しかしそのいいものを食べたいのは害獣も同じだ。特に現代に山と里との境界が希薄になったというが、獣だとすると以前でも下りてきて畑を荒らすことはある。それを捕獲する用意はしているし、実際捕獲する。しかし捕獲するだけではない、ものによっては捕獲後食べ、ものによっては捕獲後他の用途に使用したりする。そういうのが共存というものではないか。自然だなんだと訴えるのだとすればどんなものでも精一杯生きている、薄っぺらいヒューマニティなどいらない。例えばさくら肉は有名だが、害獣として捕獲される猪でもぼたん肉だし、鹿はもみじ肉、ジビエなどでも食べる。他の獣だってそうだ、大体は食べている。そういう積み重ねは脈々とあった。獣だから餌となる動植物によって肉の臭さなどが違うというが、それらも含めて自然だ。ただのもったいないからの行為だからでも、そこはどうにか工夫をするかして食べればいい。それになんの問題があり、なんの罪があるのだろうか。
今回のことを書いていて思い出したのだけど、最初に戻り宗教のことで一つ不可解なことがある。宗教でも他者、他宗教に強要したりするのはある。菜食主義の問題とは違うが、ある側面から見れば似たようなものでもあり、信じているからこそそういう行動がとれる。似ているようで違うようなこと、それは人間の人工妊娠中絶の問題だ。いろいろな問題はあるだろうが、これも結局好きにさせてやれよと思う。アメリカでは州ごとに中絶への対応が様々のようだ。要は妊娠してから何週経っているかで判断される。胎児が人間として成立しているのか母親の肉体の一部なのかを計っているのだろうと思う。それが州ごとに違い、しかも恣意的な運用もされているようだ。その幅は広く妊娠六週までしか中絶を認めない州もあれば、妊娠二十六週まで認める州もある。少ないが母体のことを考えたうえで制限なしの州までもあるという具合だ。この差は人工中絶を受けたい側からすると混乱する。その州で中絶を認められない時期でも他州で認められているということは、求める人たちは他州に行き、より面倒な手続きを終え、処置をするということでようやく目的を遂げられるという問題があるからだ。他にも合法的な処置のできる病院の前でデモなどもある、それは彼らの中では中絶を選ぶ女性は命を奪う悪人ということなのだろう。上に恣意的と書いたのは、病院自体が宗教系でその影響が及ぶ問題、生まれてくる命を尊重したいという気持ちからか処置をする側が受ける側に正確な妊娠週を教えず堕胎できないようにしたりすることもあるようだ。宗教観に基づいてよかれと思ってしてしまう。その間患者には、あれこれと生まれてくる生命についての素晴らしさを説き、現在お腹の中にいる人間の状態を慈愛に満ちた報告をする、そして産める環境にない、若しくは産む気のない人でも安心して産めるようにと、しあわせな里親等の斡旋、そういうものをふんわりと押し付けてくる。そして気づいた時には中絶可能な週を過ぎている。そういうこともあるようで、そういうのはよく分からず、許されるのかなと思う。
そんな関係のない二つのことを思い考え羅列してみたけど、これはただ私の思うことだ。世の中にはさまざまな考え方もあるし、もしかしてその中には真理も存在するのかもしれない。それは分かっている、じゃあ今なぜここでこういうことを書く必要があるのか。そうだ、そうだな、そんな必要はない。ただ、少し書きたくなった、それだけだ。
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